養生草紙 第三十四巻 寝転ぶだけの楽(らく)はなし、背中の赤鬼 (放射線治療の副作用)

背後から音もなく忍び寄ってくる

いやはや、参った。二度目の抗がん剤という大きな山を越え、あののたうち回るような荒波の船酔いも、追加でもらった強い吐き気止めの薬のおかげでようやくどこかへ行きおった。

もちろん、指先から足の裏にかけて無数の電気虫がザワザワと這いずり回っとるような手足の痺れや、大好きな缶コーヒーをただの金属の錆びた水に変えちまう味覚障害ちゅう厄介な同居人どもは、今も何食わぬ顔でワシの四肢に居座り続けとう。けれどものう、この二回目の点滴の嵐をなんとか切り抜けたということは、先生が言うておられた「十日間の自宅療養」がまた目の前に近づいてきたということでもある。「またあの住み慣れた我が家に帰れるぞ、家の茶碗で美味いメシが食えるぞ」と思うたら、暗い病室に閉じ込められていた心は自然とワクワクしてくるもんじゃ。

新しく相棒になったスマホという魔法の板きれをベッドの上でいじりながら、そんな風に、ちょっと油断をして背伸びをしとったある日の午後。

ついに、4番目の新しい敵が、ワシの背後から音もなく忍び寄ってきおった。

引き戸の向こうから差し込む西日を浴びながら、ベッドの上でふと、背中に妙な違和感が走ったんじゃ。最初は「ずっと同じ姿勢で寝転がっとったから、身体が凝り固まったんかな」くらいに思うて、丸めた坊主頭を左右に振って肩を回してみたんじゃが、どうも様子がおかしい。じわじわと皮膚の奥が熱っぽくなってきて、何とも言えん、鈍い痛みが背中全体をじわじわと這い回る。

まるで、昭和の古いお風呂屋で、熱すぎる湯にうっかり浸かってしもた後のようなヒリヒリ感。いや、それだけじゃあねぇ。背中の皮がぐいっと後ろから力任せに引っ張られとうような、突っ張るような何とも嫌な感覚が皮膚を支配し始めたんじゃ。

さすがのワシも、いくら大黒柱の意地があろうとも、自分の背中をひっくり返して鏡のように見るわけにはいかん。こういう時に一番に頼りになるんが、この白一色の城での暮らしで、すっかりお馴染みになったあの枕元のナースコールじゃ。

ボタンをポチリと押して、パタパタと小気味よい足音を響かせて駆けつけてくれた看護師さんに、ジャージの背中をめくってワシの背中を検分してもらったんじゃが、その原因を聞いておったまげた。

「自由爺さん、これね、放射線治療のせいですわ。毎日電脳からくりの中で光線を当てとるでしょ? その放射線が胸から入って、ちょうど突き抜けて抜ける背中の部分の皮膚が、日焼けみたいに炎症を起こして赤くなってますよ」とのことじゃった。

……あちゃあ、そうきたか。

ワシの胸の奥、左の肺に潜む敵(がん)を叩くために、地下の薄暗い部屋にある巨大な筒の寝台に仰向けになり、左手を頭の上にぐっと上げる妙なポーズを維持するあの治療。今の今まで、放射線治療ちゅうのは「ただベッドに寝転がっとるだけでええ、痛みも熱さもないし、なんて楽な治療なんや。拍子抜けじゃわい」と、すっかり高をくくっとったんじゃ。甘かったなぁ。

光線そのものは痛くも痒くもなくても、浴びた光の毒素は確実にワシの肉体を通り抜け、こうして忘れた頃に裏口から火を放ちよる。やっぱり、がん治療ちゅうのは一筋縄ではいかん化け物やなと、冷や汗が坊主頭のてっぺんを伝う中で、改めて兜の緒をギュッと締め直すような心地がしたわい。

そうして背中のヒリヒリに耐えながら夕方になり、主治医の先生が巡回で見回りに来てくれた。

ワシの困り顔を見た先生は、ありがたいことに、その場ですぐに炎症を抑えるための飲み薬と、皮膚を保護する白い塗り薬を処方してくれたんじゃ。いつも淡々としとる利発そうな先生じゃが、ワシの顔をじっと見つめながら、「自由爺さん、放射線治療はね、これから回数を重ねると、副作用で喉の奥が焼けるように痛む食道炎みたいな症状が出ることもあるから、もし少しでもおかしいと思ったら、その時は遠慮せんとすぐに言うてくださいね」と、なんとも温かい、心に寄り添う言葉をかけてくださった。

白衣の医師殿のその優しさは、冷え切った心に灯る炭火のようにじんわりと五臓六腑に染み渡りやす。

……でもね、先生。

「お言葉ですが、そんな遠慮するような心の余裕は、今のワシには一ミリもございません」

情けないことに、声には出せず、心の中でそっとつぶやくのが精一杯じゃった。

だってそうじゃあねぇですか。インスリンでの血糖値管理に始まり、暇持て余し地獄、水責めの喉ヒリヒリ、手足の痺れに味覚の家出。そこへきて今度は背中の日焼け地獄じゃ。次から次へと新しい伏兵が天から降ってくるんじゃから、もう格好をつけて背伸びをしたり、遠慮なんていう大人の格好をつけとる場合やあらへん。弱音を吐いて、ナースコールを押し倒してでも、しがみついてこの大戦(おおいくさ)を生き抜く。それだけが今のワシの戦闘服なんやからな。

ま、特効薬の塗り薬ももらったこっちゃし、これ以上の災難のアンコールが来んことを夜空に祈って、今日はおとなしく看護師さんに背中に薬を塗ってもらい、毛布を深く被って寝るとしますわ。

二十二時の消灯を告げる静かなアナウンスが流れ、パチリと部屋の灯りが消えやした。

病気との戦いは、百メートル走のような短距離じゃあねぇ、終わりの見えない長い長い長距離走じゃ。焦ってジタバタと波を立てたところで、時計の針が早く進むわけじゃなし、背中の赤みが消えるわけでもありゃせん。焦ってもしょうがない、明日もまた、明日の風を信じて、ボチボチ、一歩ずつ自分の足で進んでいきますか。

皆も、日々の忙しい仕事や暮らしの現場の中で、身体が発するちょっとしたおかしなサインを見落としちゃあいけんよ。限界まで我慢して心がポキッと折れちまう前に、遠慮せんと周りの大切な人に頼りなはれや。人は一人じゃあ生きられんのじゃからな。

それじゃあ、今夜はこれでおしまい。ええ夢を。

拙い話にお付き合いくださり、感謝の極みじゃ。
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