第三話 何も釣れんかったが、確かに何かを手にしとった

その日は、バックラッシュ続きじゃった。投げるたびに、ラインは言うことを聞かず、リールのまわりで意地悪く絡みつく。

ほどいては巻き、巻いてはまた絡む。気がつけば、投げとる時間より、糸とにらめっこしとる時間のほうが長かった。

しゃがみ込んで、リールを膝に乗せ、指先で、一本一本ほどいていく。

風に煽られて、また別のところが絡む。小さく息を吐きながら、黙々と続ける。正直、体はもうヘロヘロじゃった。

「……今日は、あかん日やな」そう思いながらも、不思議と腹は立たんかった。

むしろ、どこか懐かしい。昔も、こんな日はいくらでもあった。うまくいかんのになぜか嫌いになれん時間じゃ。

夕方になり、ロッドを畳み、道具を片付けて帰る。釣果はゼロ。

手は汚れ、腰は重い。それでもな、胸の奥が、じんわり温こうなっとった。

家に戻り、風呂に入って、道具を干す。リールを眺めながら、ふと、こんなことを思った。

「……明日も、行こか」

自分でも驚いた。無理に前向きになったわけでもない。気合を入れたわけでもない。

ただ、次に投げることを、もう考えとったんじゃ。その時、気づいた。

あれだけ頭に居座っとった病のことが、すっと、消えとった。不安も、恐れも、先の見えん感じも。

それらが、釣りの段取りに押し出されるように、隅へ追いやられとった。頭の中は、次のキャスト、ラインの太さ、投げる角度。

すっかり、釣り一色じゃ。「……この感じ、何年ぶりやろな」そう呟いて、ちょっと笑う。

忙しさだの、責任だの、理由を並べて遠ざけとった感覚。自分のためだけに、時間を使うこと。誰にも評価されず、誰にも邪魔されん楽しみ。

そんな時間を、いつの間にか、忘れとったんじゃな。

釣りは魚を釣るもんやと、長いこと思い込んどった。じゃが、この日は違った。釣れたのは、魚やない。

集中する感覚。夢中になれる時間。そして、「明日が楽しみや」と思える気持ち。

それをな、絡まった糸をほどくたびに、一本ずつ引き出しとったんかもしれん。

バックラッシュを直す作業は、面倒で、地味で、決して楽ではない。それでも、頭が空っぽになる。考えんでええ。

指先だけ動かす。その単純さが、今のわしには、ちょうどよかった。大げさに聞こえるかもしれんが、

釣り場に立っとる間、わしは「患者」でも「社会人」でもなかった。ただの、一人の釣り人じゃった。

家に帰り、翌日の準備をしながら自然とルアーを手に取っとる自分に気づく。

どれを投げるか。どう投げるか。そんなことを考えとる自分が、少し可笑しくて、少し嬉しかった。

忘れかけとったもんを、思い出した気がした。自分だけの時間。自分だけの楽しみ。

誰かの期待とも、評価とも、何の関係もない喜び。釣りは、相変わらず下手じゃ。明日もきっと、うまくいかんことのほうが多い。

それでも、ええ。バックラッシュだらけの一日が、こんなにも心を軽うするとは、思わんかった。

何も釣れんかった。じゃが、確かに、自分を少し取り戻しとった。――明日も、竿を振ろう。

そう思える夜があること。それが、この日の、いちばんの釣果じゃった。