太公望の戯れ 第一話 出会い

白髪交じりの爺がまだ向こう見ずな少年じゃった頃の、胸の奥底がじわっと熱くなるような遠い日の記憶でございます。

あの頃の話をするとじゃな、どうも昔語りが溢れ出てきて話が長うなる。年寄りの特権ということで、まあ勘弁してもらおうか。

今から振り返れば、あの頃のわしにとってブラックバスという魚は、ただの獲物やない、世界のすべてじゃった。釣りに本気でのめり込み、文字通り寝食を忘れて狂うておったのは、十四から十七歳にかけての多感な時期。相手は来る日も来る日も、あの上顎の張り出した厳つい顔のブラックバス。今にして思えば、男の人生に必要なことの半分くらいは、あの緑色の魚に仕込まれた気がしとるんじゃ。

当時のわしにとって、バス釣りは単なる放課後の遊びじゃなかった。学校の授業が終わるチャイムが鳴り響くと同時に、頭の中はもう、教科書を飛び越えて野池のほとりへまっしぐら。次はどこの池の淀みを狙う、どのルアーを投げ入れる、風の向きはどうじゃ、水の色は澄んどるか濁っとるか。ノートの端っこに、仕掛けの絵や意味の分からん作戦をチマチマと書き散らして、それをニヤニヤと眺めながら一晩中過ごせたんじゃから、若いというのは、ほんに恐ろしくも純粋なものじゃ。

当時のわしらが抱いた憧れというやつは、実にもって単純明快じゃった。スウェーデン製の名器「アブ・アンバサダー」。丸くて、ずっしりと重たくて、触れるとヒヤリと冷たい金属の塊。あれはわしらにとって単なる釣りの道具というよりは、大人の男の仲間入りを果たすための「一人前の男の証」みたいなもんじゃった。中高生の薄っぺらい小遣いじゃ、逆立ちしたって手の届かん雲の上の高嶺の花。街の釣具屋のガラスケース越しに、額を擦り付けるようにして眺めては、重たいため息をひとつ。今みたいにネットで叩けば何でも一発で分かる時代じゃないから、見えん部分の性能を想像だけで膨らませ、勝手に神様にして崇めておったんじゃな。

しかし、ある日ついに覚悟を決めた。お年玉やコツコツ貯めた小遣いを封筒から引き出し、汗ばんだ手で固く握りしめて釣具屋へ走り、ようやく手に入れたのが、ピストル型のグリップがついたベイトロッドと、ダイワのきらめくベイトリールじゃった。

レジのオヤジに緊張しながら金を払い、ずっしりとした紙袋を受け取ったその瞬間。胸の奥が、火がついたようにじわっと熱うなった。「……ああ、これでようやく、大人の世界へ入ることを許されたな」と。今思えば一体誰に何を許されたのか分からんが、その時は本気で、世界の仲間入りができたと信じ込んどったんじゃ。誰も見とらん。夕暮れの街角で、ただのガキが釣具を買い求めただけ。それでも自分の中では、確かに何かがゴトリと動き出した。家に帰るまでの道すがら、嬉しくて紙袋の中身を何度も何度も開けては覗き、夜になっても自室でロッドを握りしめ、ハンドルを回しては、意味もなくニヤニヤと暗闇で笑っとったわい。

あの頃の情報量なんぞ、現代とは比べものにならんほど貧弱やった。画面を叩けば名人の動画が見られるわけでもなければ、手取り足取り教えてくれる親切な大人もおらん。頼れるのは、ボロボロになるまで読み込んだ雑誌と本だけじゃ。それを暗記するほど何度も読み返し、頭の中で勝手に世界一の名人になりきり、意気揚々と池へ行って実際にやってみては、見事に手痛い失敗をする。

キャストは狙った場所へちっとも決まらん。リールの中の糸が鳥の巣のようにクシャクシャに絡まる「バックラッシュ」は毎度おなじみ、山盛りじゃ。それでも、指先を泥だらけにしながら糸を解き、また懲りずに竿を振る。なぜかって。そりゃあ、理屈抜きで楽しかったからじゃ。

ルアー一個が、えらく高価に感じた時代じゃった。今なら大人の財力で「消耗品」として片付けられるが、当時は一個なくすたびに、自分の体の一部が削ぎ落とされるように心が痛んだ。水底の切り株に針が引っかかる「根掛かり」をした時の絶望感は、今でも昨日のことのように鮮明に覚えとる。ラインをギリギリと引っ張り、竿の角度を右へ左へと変え、お天道様に神頼みで祈る。それでも外れん時は、静かな水面をじっと見つめて本気で思ったもんじゃ。「……ええい、このまま水へ潜ったろか」と。もちろん冷たい池に潜りはせんかったが、それくらい、プラスチックのルアー一つひとつに自分の魂がぎっしりと入っとった。傷だらけになったクランクベイトも、バスの鋭い歯形が残るワームも、修羅場をくぐり抜けてきた立派な戦友じゃった。

たとえ一匹も釣れんボウズの日であっても、帰り道の心は不思議と満たされとった。耳をくすぐる風の音、夕日に染まる水の色、足元の草がサワサワと揺れる気配。世界はどこまでも広うて、そして静かじゃった。

今思えば、わしはあの不器用な釣りを通して、人生の土台を学んどったんじゃろうな。どうすれば釣れるか知恵を絞って工夫すること。釣れん時間もじっと耐えて我慢すること。うまくいかん日々が続いても、腐らずに投げ続けること。

ボタン一つで何でも手に入る便利な現代の世の中も、決して悪うない。じゃがのう、右も左も何も分からんまま、自分の拙い勘だけを頼りにして泥臭く投げ続けたあの濃密な時間は、今でも宝物のように胸の奥底で鈍く光っとる。釣りは単に魚を釣るだけの遊びじゃない。大自然の中で、たった一人の自分自身と静かに向き合う、かけがえのない時間じゃった。

今でも工房の片隅で古いベイトリールを手に取ると、あの頃の生意気で泥だらけのわしが、草むらの向こうから少し照れくさそうに、ニカッと笑っとる気がするんじゃ。

――さて。次は、どの輝かしい一投を思い出そうか。話の引き出しはまだまだある。どうせ還暦を過ぎて、贅沢な時間だけは山ほどあるからの。

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