太公望の戯れ 第五話 川は、答えを急がせんかった
机の上での宝探しから一転、足元に流れる巨大な大自然へと飛び込んだ、爺の新たな挑戦の始まりでございます。
夜な夜なパソコンの四角い画面と睨み合い、加古川周辺の釣り場を血眼になって調べ続けとるうちに、ワシはひとつ、あまりにも当たり前すぎて、それゆえにスッポリと見落としとった大きな事実に行き当たったんじゃ。
灯台下暗しとはよく言ったもんで、なんとワシの家のすぐ近くに、兵庫県下でも最大級の一級河川が、太古の昔からドカンと流れとるやないか。しかもじゃ、ネットの情報を手繰り寄せてみれば、しかるべき年会費(遊漁料)をきっちり納めさえすれば、お国が定めた大らかなルールの中で、誰に気兼ねすることなく堂々と釣りができるらしい。
これには目からウロコがボロボロと落ちたわい。昔なじみの池や野池での釣りとくりゃ、最近はどこへ行っても「釣り禁止」「立ち入り禁止」のいけずな看板が立ちはだかり、いつ怒られるかとビクビク針を運ばにゃならん。あっちの場所はグレー、こっちの土手もグレーと、グレーゾーンの狭間で余計な神経をすり減らすのには、正直もうウンザリしとったんじゃ。
だが、この大河はどうじゃ。「ワシは金を払い、ルールを守って、ここで胸を張って釣りをしとるんや」と、お天道様の下でドッシリと足を踏ん張れる場所がある。ただそれだけの事実で、なんだか少し、強張っとった肩の力がスッと抜けていくのが分かったわい。川の深みに一体何が釣れるかは分からん。昔追いかけたブラックバスが令和の今もおるかどうかも、正直あやしいもんじゃ。それでもな、「分からんからこそ、行ってみよう」と、道具箱を抱えて立ち上がったんじゃ。釣りという遊びは、先が見えんからこそ面白い。十四、七の小僧だったあの頃から、そこだけは何も変わっちゃおらん。
いざ長靴を履いて川辺に立ってみると、これが池とはまるで勝手が違って、実に手強い。
目の前の水は生き物のようにゴォゴォと流れ、深さは一歩ごとに一定やない。さっきまで足首ほどじゃったのに、一歩進めば急に深みに落ち込んどるところもあれば、サラサラと浅くゆるやかに広がる瀬もある。どこに魚が身を潜めておるのか、さっぱり見当がつかんのじゃ。昔通った池ならな、「ここに杭があるから影におるやろ」「岸際の草の陰やな」という、長年の勘が通用した。じゃが、この大河ではその定石がちっとも通用せん。流れの強さ、水の色、刻一刻と変わる底の形。全部の要素が、生き物みたいに絶え間なく動いとるんじゃからな。
「……なるほど、こりゃあバス釣りとは根本的に別の釣りやな」
土手の上でポツンと腕組みをしながら、じゃが、嫌な感じはサラサラせんかった。むしろ、右も左も分からんという真っ白な感覚が、還暦を過ぎたワシの身体には、たまらなく新鮮で心地よかったんじゃ。
ポイントの正解は分からんし、めくるべき教科書もない。頼れるのは、泥臭い手探りの一投と、自分のなまくらな勘だけじゃ。まずは流れの比較的緩いワンドに立って、最新のロッドをしならせて第一投を放つ。川の流れにルアーを乗せて引き、手元に伝わる水圧の感触を確かめる。……うむ、反応なし。少し場所を歩いて変え、今度は二つの流れが激しくぶつかり合ってヨレとるあたりへ投げ込んでみる。それでも、川は沈黙したままで答えは返ってこん。
「そう簡単には問屋が卸してくれんか」と白髪頭を掻いたそのとき、ふと、昔の道具箱の隅っこで眠っとった、ある古いルアーの顔が頭に浮かんだ。
「スピナー」じゃ。真鍮の小さな羽根が回るだけの、今どきの釣り雑誌じゃあ誰も話題にせんような、骨董品みたいなルアーよ。いま釣具屋に並んどる色鮮やかで派手なルアーと比べりゃ、外見は地味極まりない。自分でも「化石みたいな選択をしとるな」と苦笑いした。それでもな、なぜかあの金色に光る羽根を、この加古川の流れの中で躍らせてみたくなったんじゃ。理由なんてない、ただワシの勘がそうしろと囁いただけじゃ。
スピナーを糸の先に結び、きらめく水面へキャスト。流れに乗せ、リールのハンドルをゆっくり、ゆっくりと巻いていく。川の抵抗を受けてブレードが水中でチュルチュルと回り、そのかすかな震えが、竿を通してワシの指先へとダイレクトに伝わってくる。
その瞬間じゃった。……コン。指先に、小さく、だが確かなアタリが響いた。
身体が勝手に反応してロッドを鋭く合わせると、次の瞬間、竿が満月のようにギューンと曲がり、水面下の何者かが猛烈な勢いで走り出した!
「……おいおい、本当におるやんか!」
興奮のあまり、心の中で叫び声を上げとったわい。リールを巻き、暴れる魚をなだめすかし、慎重に手元へ寄せてタモ網(ネット)に収めたその魚は……一尺はあろうかという、立派な「ニゴイ」じゃった。
世間じゃあブラックバスのような人気者でもなければ、釣り人が血眼になって狙うターゲットでもない。じゃがな、夏の西日に照らされて網の中でバタバタと跳ねるその一匹は、ワシの目にはどんな高級魚よりもやけに神々しく、キラキラと輝いて見えたんじゃ。
この大河で、初めて、誰の真似でもなく自分の手で手探りで手に入れた記念すべき一匹。ポイントも分からんまま、あっちへ行きこっちへ戻り、泥にまみれて辿り着いたワシだけの答えが、ちゃんと命ある形になって、いま目の前に確かにおる。
スピナーの針を外しながら、誰もいない河原で自然と「へへっ」と笑ってしもうたわい。「……おい爺さん、お前もまだ、捨てたもんやないな。まだ、いけるな」とな。
釣れるか釣れないか、そんなもんは年齢のせいでもなければ、何十年のブランクのせいでもない。目の前の自然と、どれだけ真摯に、逃げずに真っ向から向き合ったかどうか。そんな大切な商売の基本のようなことを、あの一尺のニゴイが、身をもってワシに教えてくれた気がしたんじゃ。
最新の一万円もする道具やなくてもええ。流行りの小難しい釣り方やなくてもええ。自分がこれと信じて魂を込めて投げたもんに、水の向こうの魚は、ちゃんと応えてくれる。
川というやつはな、池みたいに足場も良くないし分かりやすうはない。じゃが、そのぶん、手探りで引き当てた答えの喜びは、どこまでも深いんじゃ。
こうしてあちこち歩いて釣り場を探すことは、人生の後半戦において、自分の本当の居場所を探すことに、どこかよく似とる気がする。簡単には見つからんし、たくさん遠回りもする。それでも、諦めずに一歩ずつ足を進めて竿を振り続ければ、世界はちゃんと反応を返してくれるんじゃな。
針を外したニゴイを「ありがとな」と水へ返し、優しく帰っていく魚影を見送ったあと、しばらく土手の上で煙草に火をつけ、滔々と流れる加古川を眺めとった。
川の流れは、人間の病気や悩みなんてどこ吹く風と、変わらず淡々と、未来へ向かって続いておる。「……よし、また明日も来よう」
布団に入る前に、そう自然と思えたことが、今のワシには何より嬉しかったんじゃ。ワシの釣り人生は、まだ終わっちゃおらん。むしろ、この広大な大河を舞台にして、ここからが本当の始まりなんかもしれんな。
焦らず、急がず、明日もボチボチ、新しい命を投げにいくとしよう。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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