養生草紙 第二十巻:抗がん剤と放射線、拍子抜けの初陣 (化学療法、放射線療法の同時治療)
いやはや、案ずるより産むが易しとは、まさにこのことじゃな。
いやはや、案ずるより産むが易しとは、まさにこのことじゃな。
昨日の今頃は、初めての抗がん剤投与を前に緊張感マックス、喉の奥がキュッと縮こまるような思いをしておりやした。手首から腕の筋へ伝わってきたあのひんやりとした冷たい感覚、そして「暇持て余し地獄」と「喉ヒリヒリ地獄」の二重苦に耐えながら、六時間の点滴を終えて屋上の夜風に「たいしたことないわい」と虚勢を張った夜。あれから一日が経ち、いよいよ本当の戦いが身体の奥底で始まるのだと、どこか神妙な心持ちで毛布を被って眠りに就いたわけでございます。
そうして迎えた、抗がん剤を投与した翌日の朝。
パチリと病室の蛍光灯が点灯し、朝の館内放送が流れる。ワシは「さあ、いよいよあの噂に聞く副作用の嵐がやってくるか」と、おそるおそる目を覚ましてみたんじゃ。胃のあたりがムカムカしていないか、頭の芯が割れるように痛まないか、自分の身体の声をじっと確かめるようにしてな。
ところが、どうしたことでしょう。体調は至って普通。いつも通りにお腹の虫はグーグーと鳴き、配膳された朝飯を何事もなかったかのように綺麗に平らげ、利発そうな主治医の先生の巡回を受け、これまた毎度お馴染みの指先への針刺し検査をパパッと済ませ……。一連の朝の段取りが終わってベッドの上にぽつんと座ったとき、「あれ、抗がん剤って、こんなレベルなん?」と、拍子抜けしてしもうたわい。
テレビのドラマや映画なんかじゃあ、がんを患った患者さんが洗面台の前やベッドの横で、バケツを抱えて涙目で苦しんどる姿をよう見るやんか。
昭和の人間にとって、あの強烈な印象ってなぁ脳裏にべったりと張り付いて離れないもんでございます。ワシも今日からはあの地獄のような吐き気に襲われ、泥のようにのたうち回るんかとビクビクしとったが、フタを開けてみれば、今のところは「全然大丈夫やん」という感じじゃ。
主治医の先生の話では、今回の戦いは全部で五クール、数ヶ月に及ぶ長丁場の戦いやと聞いとる。もちろん、これが最初の一歩に過ぎんことは分かっちゃいるが、この調子ならなんとか五回とも乗り越えられそうやと、胸に閠(つか)えていた重たい塊が少しだけ解けて、ホッと安心したよ。人間、得体の知れない怪物と対峙している時が一番恐ろしいんであって、実態が少しでも見えてくれば、案外腹も据わるもんでございます。
さて、そんな拍子抜けの余韻に浸る間もなく、今日は昼からもうひとつの主戦力、放射線治療もスタートしたんじゃ。
青いプラスチックの器に盛られた昼飯を胃袋に収めたあと、スリッパをペタペタと鳴らしながら、地下にある不気味な放射線科へと足を向けやした。白い扉を開けて中へ入ると、今度は医師や技師さんから、これまた大層な、仰々しい説明を受けてな。これから毎日、この大きな電脳からくりの中に入ってもらいます、とのこと。
案内された部屋の真ん中には、近未来の宇宙船にでも置いてありそうな、巨大な筒のような装置が鎮座しておりやした。その硬い寝台の上に仰向けに寝かされ、三十分ほど、技師さんの指示に合わせて寝ながら息を止めたり吐いたりするんやと。ワシの胸の奥に潜む敵(がん)は左の肺におるから、照射する光線が綺麗に届くようにと、左手を頭の上にぐっと上げて肺を前に出す、なんとも妙なポーズを維持せにゃならん。播州の秋祭りで神輿を担ぐポーズともち chiguhagu で、はたから見ればなんとも滑稽な格好かもしれんが、こちとら必死でございます。
「さあ、いよいよ始まるぞ。レーザー光線みたいなやつが当たって、皮膚が熱うなるんか、それとも針で刺されたように痛いんか」
目元をタオルで覆われ、五感が張り詰める中でカチ、カチと機械の動く音が聞こえてくる。全身に嫌な汗がじわりと伝わるのを感じながら、嵐が過ぎ去るのをじっと身構えとったんじゃが……終わってみれば、これまた痛くも痒くもありゃせん。熱さも寒さも、パチパチとした刺激すら何ひとつねぇ。ただただ、技師さんの「はい、息を止めて」「楽にしてください」という声に合わせてじっと妙なポーズを決めとるだけで、なんともあっけなく初日の治療が終了してしもうた。
地下の重い扉を出て、自分の病室へと戻る白い廊下。
抗がん剤といい、放射線といい、あんなに入院前夜からオドオドしく身構えとったのが嘘のようじゃ。「こんなんやったら、全然怖くないやん!」と、帰り道は自然と足取りも軽うなったわい。昨日までは一歩足を踏み出すたびに床が底抜けるんじゃないかと思えるほど重たかった足元が、今日はスリッパの音も小気味よく響く。窓の外に広がるいつもの街並みが、昨日より少しだけ明るく見えたのは、きっと気のせいじゃあないはずでござんす。
もちろん、これはまだ大戦(おおいくさ)のほんの序の口。
看護師さんや医師の先生からも釘を刺された通り、お薬や光線の影響ってなぁ体の中にじわじわと溜まっていって、数日後や二クール目以降にドカンと副作用が出てくるかもしれん。そこは百戦錬磨の医療のプロが言うことじゃ、油断は絶対に禁物や。
けれどものう、最初の一歩が「怖くなかった」「痛くなかった」というこの厳然たる事実は、今のワシにとっては、どんな名医の特効薬よりも心の栄養になる。先が見えない暗闇の中で足踏みをしていた一週間に比べたら、こうして敵の懐に飛び込んでみて、笑顔で帰ってこれた。それだけで、石のように強張っていた身体の強張りが解け、気分もぐっと楽になったよ。
ま、明日からも決して油断せんと、この「いい意味での拍子抜け」を上手く維持していきたいもんやな。自分の身体を信じ、相棒となったインスリンや点滴の薬たちを信じて、一日ずつ、一歩ずつ進むだけでございます。
皆も、日々の暮らしや仕事の現場の中で、まだ見ぬ敵や、これから始まる大きな挑戦を前にして、心が縮こまって怖がりすぎとる時があるかもしれんが、いざ飛び込んでみれば案外「こんなもんか」と思えるかもしれんぞ。頭の中で膨らませた恐怖の怪物ってなぁ、実際に戦ってみれば、案外ただのハリボテだったりするもんでございますから。焦らず、恐れず、まずは目の前の一歩を踏み出してみなされ。
さて、今夜は余計な心配事は屋上の風にすべて預けて、気分よく、早めに目を閉じるとしますか。また明日も、ボチボチな。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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