養生草紙 第二十五巻:点滴の儀式と、雨上がりの青写真  (抗がん剤 点滴)

いやはや、二度目の「儀式」を終えてきたところじゃ。

いやはや、二度目の「儀式」を終えてきたところじゃ。

十日間の夢のような自宅療養を終え、あの味気ないブルーのプラスチック容器に盛られた夕食の煮物にため息を漏らしたのが昨夜のこと。パチリと病室の蛍光灯が灯り、白一色の気ぜわしい午前中が始まれば、娑婆(しゃば)の名残惜しさに浸っている時間なんてなぁ微塵もありゃせん。青々とした坊主頭を手のひらでひとつ撫で、ワシは再び不退転の肚(はら)を括って、あのステンレスの点滴スタンドが待つ戦場へと赴いたのでございます。

一回目と全く同じ手続き、全く同じ医師からの説明……。

一度経験しているからこそ、次に何が起きるのか、どのタイミングで腕に細い管が通されるのか、その段取りのすべてが頭の中でパチパチと計算通りに進んでいきやす。まるで決まった型を黙々とこなす職人仕事か、あるいは由緒あるお社(やしろ)の年中行事のようじゃ。そんな何度も繰り返される一連の手順を、文字通りひとつの「儀式」のように粛々と受けて、いよいよ二度目の抗がん剤投与の点滴がスタートしたわけでございます。

しかし、これがまあ相変わらず長い。とにかく長い、ながーい時間でござんす。

カチ、カチと静かに速度を刻む機械の音を聞きながら、頭上にある透明な点滴の袋をじっと眺める。手首から腕の筋、そして肩の奥へと直接伝わってくるあの独特のひんやりとした冷たい感覚。こいつがワシの味方となり、胸の奥深くで癌細胞の奴らと大いくさを繰り広げているはずなんじゃが、いざ始まってしまえば、ワシ自身はベッドの横のパイプ椅子にじっと動かずに座っているしかない。

痛みもなければ、胃の腑からせり上がるような気持ち悪さもありゃせん。どこも痛くも痒くもない点滴の袋の揺れを眺めながら、ただじっと時間が過ぎるのを待つという時間は、なんとも不思議な心地がするもんやな。昨日まで自宅の大きな画面で映画を愉しみ、村上春樹の分厚い本をめくっていた日常が、まるでガラス一枚隔てた向こう側の出来事のように思えてくる。動かない時計の針と睨み合いながら、ワシは「手持ち無沙汰という怪物」を追い払うように、新しく相棒になったスマホという魔法の板きれを片手にあれこれと思索に耽っておりやした。

そんな長い時間の最中、ふと思い出したんじゃが、段取りを整えてくれていた看護師さんが「自由爺さん、今は本当に楽になりましたよ」と、マスクの奥の目を細めて笑うてな。

気になって詳しく聞けば、ほんの十年前の医療の現場じゃあ、抗がん剤の副作用ってなぁ今よりずっとひどくてな。それこそテレビのドラマや映画さながらに、投与が始まった直後から猛烈な吐き気に襲われ、一日中「トイレが友達」状態になるんが当たり前やったらしい。洗面台にしがみつき、涙目で胃の中のものをすべて吐き出し、男のプライドも自負も根こそぎ剥ぎ取られていく……そんな地獄のような難行を、昔の患者さんたちは誰もが通ってきたというんじゃ。

それを思えば、技術の進歩、医学のからくりちゅうのは真面目にええ仕事をしとる、えらいもんやな。

主治医の先生が初陣の前に「最近の薬は進化しとりますよ」と利発そうな顔で言うてくれた言葉に、嘘偽りはございやせんでした。ワシの体への負担も、その頃の昔に比べりゃあ、無茶苦茶なくなっとるそうじゃ。

日に三度、指先に針を刺して測る血糖値の管理やら、一リットルの水を無理やり胃袋に流し込む水責めの「喉ヒリヒリ地獄」やら、それなりの小競り合いはありやすが、あののたうち回るような大嵐に比べたら、贅沢を言っちゃあバチが当たりやす。やがてカチリと機械が鳴り、六時間に及ぶ長かった点滴も無事に終わりを告げやした。自分の足でしっかりと立ち、腕の管を抜いてもらった瞬間、この素晴らしい文明の利器と、日夜研究を重ねてくれた医療の進歩に、思わず胸の中で深く感謝せずにはおられんかったのでございます。

今日は朝から一日中、雨が降っとった。

点滴を終えて、スリッパをペタペタと鳴らしながら、いつものように解放感を求めて屋上の公園へと足を向けたんじゃが、引き戸を開けると、そこには播州の冷たい浜風をはらんだ雨がしとしとと街を濡らしとうのが見えやした。煙るような霧の向こう、遠くにかすむ Kakogawa の街並み。

一回目に入院した日の夜、あの手持ち無沙汰の怪物から逃れて屋上へ上ったときも、確かこんな嫌な雨が降っていた。けれど、あの時と今とで決定的に違うんは、その天気くらいのもんじゃ。

一回目の時は、医師からの「余命二年」という無慈悲な宣告の重みに押しつぶされ、足の先から凍りつくような恐怖の中で、悪い方、悪い方へと考えてしまう心の癖がついていやした。真っ暗な病室で白い天井を凝視しながら、「ワシ、本当に死ぬんか??」と夜な夜な独りごちていたもんでございます。

それがどうでしょう。二度目の儀式を終えた今のワシは、播州の街を濡らす雨を眺めながら、不思議なほど心が凪いでいる。

「こんなに楽な思いをして、お医者先生に守られながら治療を受けさせてもらって、本当にええんやろか……」

点滴を終えて、雨の匂いが混じった冷たい風を坊主頭に受けながらそんなことを考えとったら、ふと「次に十日間の自宅療養で家に帰ったら、今度は何をしよか」と、心が少し浮き立つのを感じたんじゃ。

前回は家の大きなパソコンで趣味のことを調べたり、公園を散歩して家族と刺身をつまんだりして魂の洗濯をいたしやしたが、次はもっとやりたいことがある。あの懐かしい縁側に座って、魔法の板きれで新しいブログの続きをじっくり書くのもええし、なじみの職場の仲間に元気な顔を見せに行くのもええ。絶望の霧に隠れて見えなくなっていた未来の景色が、いまは瑞々しい輪郭を持って、ワシの目の前に広がっているのが分かりやした。

病気という目に見えない大きな怪物との付き合いも、こうしてひとつの「儀式」として、焦らず、恐れず、淡々とこなしていけば、案外その先にある新しい楽しみ、生きる喜びってやつが見つかるもんかもしれんのう。

一度は奈落の底へ突き落とされたワシじゃが、髪を丸めて形から入り、インスリンで血糖値の地固めをし、一歩ずつ自分の足で歩んできた。その泥臭い歩みのすべてが、今のワシの戦闘服となり、静かな勇気となって胸の奥に灯り続けているんでさぁ。

さて、時計の針を無理に早める必要はねぇ。焦らんとボチボチいくとするか。

空を見上げれば、雲の向こうにはいつでも変わらない青い空が待っている。このしとしとと降る雨が上がれば、またワシの人生には、やりたいことが山ほど、それこそ数えきれないくらい山ほど待っとるんじゃからな。

皆も、日々の暮らしや仕事の現場の中で、避けられん試練や憂鬱な段取りにぶつかる夜があるやろう。そういう時は、無理に波を立てようとせず、「これもひとつの儀式や」と腹を括って、そっと深く呼吸をしなされ。止まない雨はねぇし、明けない夜もありやせん。今夜はどうか余計な先回りの心配事はすべて風に預けて、心穏やかにゆっくりと休み。

ワシはワシの道を、明日もまた、ボチボチと歩むだけや。

【ワシからのお願い(免責事項)】
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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