第二話 釣りは、黙って待っとってくれた

大学へ行き、そのうち社会へ放り出され、気がついたら釣りは、生活の真ん中からずいぶん遠いところへ行ってしもうとった。

嫌いになったわけでもない。やめようと決めた覚えもない。ただ、時間がなかった。ほんに、それだけの話じゃ。

講義に、バイトに、就職の心配。社会に出りゃ、仕事だ責任だ人間関係だと、気がつけば一日が終わっとる。

休みはあっても、体と気持ちがついてこん。「また今度な」「落ち着いたらや」そう言い続けとるうちに、ロッドは押し入れの奥へ、

釣りの記憶は、さらにその奥へと押し込まれていった。

それでもな、どこかで分かっとったんじゃ。釣りは終わったんやない。ただ、ちょっと間を置いとるだけやと。

その合図が、えらく皮肉な形でやって来た。ガンの治療が、ひと区切りついた頃のことじゃ。

治療が終わったからといって、心まで軽うなるわけやない。体は回復しとるはずなのに、頭の中だけがやたらとうるさい。

これからどうする。何を大事に生きる。考えれば考えるほど、答えは出んで、ただ疲れるばかりじゃった。

そんなある日、ふと思った。「……久しぶりに、釣りでもするかの」

深い理由はない。前向きでも、立派でもない。ただ、一人で考えるのに、くたびれとったんじゃろう。

久しぶりに入った釣具屋は、正直、別世界じゃった。棚はきっちり並び、ジャンルは細かく分かれ、ルアーは、もう無限にあるように見えた。

昔はな、「これ投げときゃ、まあ何とかなる」そんな時代じゃったんだがのう。

ロッドに、リールに、ライン。硬さだ、長さだ、素材だ。初心者向け、上級者向け、用途別。……正直、頭がついてこん。

その時、若い店員さんが声をかけてくれた。ちょいと照れくさかったが、正直に言った。「久しぶりでのう。ほとんど忘れてしもうて」

嫌な顔ひとつせず、丁寧に教えてくれた。昔のわしが知らん言葉が、次から次へと出てくる。

それでも、不思議と嫌やなかった。知らんことを教わるのも、歳を重ねると、悪うないもんじゃ。教えてもろうて、一式そろえた。

ロッド、リール、ライン、ルアー。袋を受け取ったとき、昔と同じ感覚が、ほんの少し戻ってきた。

ああ、これから何か始まる前の、あの感じじゃ。そして、釣り場へ向かった。久しぶりの水辺は、静かじゃった。

風の音、水の揺れ、遠くの鳥の声。それだけで、胸の奥が少し緩んだ。

第一投。――盛大なバックラッシュ。「……あちゃー」

第二投。第三投。「あれ?」「あれれ?」まるで飛ばん。絡む、届かん、思うようにいかん。

昔は、もうちょいマシやったはずなんじゃがなぁ。「こんなに下手になっとったか」思わず一人で苦笑い。

悔しさより、可笑しさの方が勝っとった。うまくいかんのに、なぜか気持ちは軽かった。

考えんでええ時間。結果を出さんでええ時間。ただ投げて、巻いて、また投げる。

魚は釣れんかった。でも、それでよかった。釣りはな、上手くなるためだけのもんやない。誰かに評価されるもんでもない。

静かに、自分のペースで向き合える時間じゃったんやと、あらためて気づかされた。

長いこと離れとったのに、釣りは何も責めんかった。

下手でも、忘れとっても、「まあ、そんなもんやろ」そう言うてくれとる気がした。

釣りは、黙って待っとってくれたんかもしれんな。

バックラッシュだらけの一日。それでも帰り道は、ほんの少し、足取りが軽かった。

――次は、もうちょいマシに投げられる気がしたからの。