養生草紙 第一巻 椅子に置き去りの心
あれは、いつもと変わらぬ仕事の最中のことでござんした。
ふいにな、胸の奥がひっくり返るような妙な震えが走ったと思ったら、次の瞬間、目の前が真っ白な霧に包まれやした。 …気がつきゃ、揺れる救急車の天井をぼんやりと眺めていたんでさぁ。
「不整脈だね」 医者はそう言い、念のためと精密検査を勧めやした。 この時はまだ、「ちいと働きすぎたか」なんて、他人事のように構えていたんですがね。
数日後、診察室の椅子に腰を下ろしたあっしの前で、医者が一枚の画像を指さしやした。 ほんの少し、言葉を選ぶような間があった。あの静寂が、今でも耳の奥に残っていやす。
「肺に影があります。がん専門の病院で、詳しく診てもらってください」
その瞬間、あっしの周りの時間だけが、音を立てて先に進んでいっちまった。 体は医者の話を聞いているが、心だけはあの丸椅子に置き去りにされたまま、一歩も動けねぇ。
帰り道の病院の廊下が、やけに、やけに長く感じられやした。 さっきまで見ていた景色が、まるで別の浮世(せかい)のことのように思えて……。
これが、あっしの「自由爺」への長い旅路の始まりだったわけでござんす。
