養生草紙 第五十巻 夏空に広がる退院の笑顔と、その裏側に秘めた静かな覚悟

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※本記事は筆者個人の体験談であり、医療的な診断・助言や効果効能を保証・推奨するものではありません。症状や治療に関しては必ず専門の医師・医療機関にご相談ください。
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病院の自動ドアを抜けた瞬間に肌を焼いたあの猛烈な湿気とジリジリとした熱線は、播州の地に本格的な夏の到来を告げておった。四ヶ月前、寒さに震えながら病院の門をくぐった時には、まさかこのようなギラギラとした太陽の光の中に帰ってくることになるとは、夢にも思っていなかったのじゃ。空の青さはどこまでも深く、近所の庭木からは元気な蝉の初鳴きが響いておる。風がそよぐたびに、草木の青く甘い匂いと、慣れ親しんだ地元の夏の空気が鼻腔をくすぐる。長かった入院生活を終え、ついに我が家の敷居を跨ぐ時が来たんじゃな。病院の無機質な消毒液の匂いとは違う、我が家独特の古い木と畳の温かい匂いがワシを優しく出迎えてくれた。

畳の上に広がる温かい笑い声

ワシが三回目の抗がん剤治療を乗り越え、無事に退院してきたという報せを聞きつけて、親戚が三家族も「退院おめでとう!」「本当によく頑張ったなぁ」とお祝いで駆けつけてくれたのじゃ。病室でただ一人、静かに天井を眺めながら、吐き気や手足の痺れ、嗅覚の異常に耐えていたあの暗い日々が、まるで遠い昔の出来事のように思える。畳の上に座布団を並べ、冷たいお茶や手作りのごちそうを囲みながら、広間には賑やかな笑顔と笑い声があふれかえった。ワシも久しぶりに腹の底から声を出して、みんなの顔を見渡しながら何度も笑ったわい。手渡された湯呑みから立ち上る茶の香りと、みんなの温かい温もりに包まれて、強ばっていた身体の力がすーっと抜けていくようじゃった。「ほんまに良かったなぁ」「自由爺さん、顔色が戻って安心したわ」と、代わる代わる肩を叩かれ、手を握られるたびに、生きている実感が胸の奥から湧き上がってきた。

祝福の賑やかさと心の中の静けさ

けれど……みんなが心の底から喜んでくれているその笑顔のすぐ裏側で、ワシの心の中心には、冷たい氷のような静けさがそっと居座っておったんじゃ。みんなは「がんが治った」「これで元通りだ」と思って、手放しで祝福してくれている。しかし、当事者であるワシだけは「この戦いは、まだ何一つ終わっていない」という事実を、痛いほどよく知っているのじゃよ。主治医の先生が最後の問診で静かに告げた言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。「今回は状態が改善したので抗がん剤を一旦中止しますが、これからはひと月ごとに病院へ来て、血液検査と画像診断で経過を診ていきますからね」と。そう、ワシの体に巣食ったがんという化け物は、抗がん剤と放射線の挟み撃ちにあって一旦おとなしく影を潜めただけに過ぎん。またいつ目を覚まして、暗闇から牙を剥いて襲いかかってくるか分からんのじゃ。来月になれば、またあの病院へ出向き、造影剤の熱さに耐えながらドキドキと検査結果を待たねばならん。だからワシは「完全に治った」のではない。「今は運良く、生きているだけ」なんやと、我が身の現実を静かに噛みしめていた。

転んでもただでは起き上がらん

お祝いの宴が終わり、親戚たちが「また来るからな」と名残惜しそうに帰っていった後、静まり返った部屋で一人、自分の手を見つめた。入院中、同じタイミングで治療を始めながら、「薬が辛い」と涙を流し、三回目の治療を受けずに自ら退院していったあの十歳ほど若い彼の姿が頭をよぎる。彼は今、どんな思いでどこで過ごしているだろうか。自分の道を自分で決めて病院を去った彼のように、ワシもまた、自分の身に起きた現実から目を背けずに歩んでいくしかないのじゃ。ふと昔、少林寺拳法の道場で汗を流していた頃のことを思い出した。激しい組手の中で大きな技をもらい、息が詰まって膝をついた時、教え込まれたのは「倒れたこと自体よりも、そこからどうやって起き上がるかだ」ということじゃった。今のワシの状況も、よく似ているかもしれんな。病に倒れ、強い薬でボロボロになりながらも、ワシはこうして自分の足で我が家へ戻ってきた。完全な勝利ではなくとも、この泥臭い生還こそが、今のワシの誇りなんじゃ。

いま、闘病の真っ只中にいて暗闇の中でもがいている人や、その背中を不安な思いで見守っているご家族もたくさんおられることだろう。励ましの言葉さえ重荷になる夜があることを、ワシは病室のベッドの上で痛いほど知った。だから「頑張れ」とは言わん。ただ、自分の体の中に眠る小さな生命力を信じて、今日という一日を何とかやり過ごしてほしいと願うばかりじゃ。

ま、いくら先々のことを心配したところで、来月の検査結果が変わるわけやなし、焦ってもしょうがない。お祝いに来てくれたみんなの笑顔と、我が家の温かい畳の感触を胸に抱いて、今日という一日を無事に生き抜けたことに感謝するとしますわ。明日からも先生の言いつけを守り、血糖値のコントロールと不摂生に気をつけながら、自分のペースでボチボチやっていきますか。皆も、当たり前のように過ぎていく今日という一日を、どうか愛おしく過ごしなはれや。今夜もええ夢をみなされよ。

病気は退院で終わったわけではなかった。本当の養生は、ここから始まるのじゃった。

       養生草紙
   第一章 発見・入院・治療・退院編 完

      第二章へつづく

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