養生草紙 第三十九巻 特別室の荒波と、鼻をくすぐる第七の敵 (3回目の抗がん剤、嗅覚障害)
いやはや、参った。いよいよこの日が来てしもうた。
いやはや、参った。いよいよこの日が来てしもうた。カレンダーのバツ印を睨みながら、心のどこかで「まだ先のこと」と思いたかったその日が、とうとう容赦なく幕を開けたんじゃ。 朝、目が覚めてからの体調は相変わらず一進一退の、お世辞にも万全とは言えん状態じゃった。じゃが、ここで弱音を吐いては戦う前に敵に尻尾を振るようなもの。そう自分に発破をかけ、用意された朝食を文字通り「きっちりと食事を喉に流し込み」戦いへのエネルギーを蓄えた。その後、病院の白い廊下を渡って定例の検査を幾つも済ませてな。ついに、私の身体をかけた3回目の抗がん剤治療がスタートしたんじゃ。腕に刺さる針を見つめながら、いよいよ覚悟を決めるしかなかったわい。
ただな、今回の一戦はいつもと場所が違う。
ただな、今回の一戦はいつもと場所が違う。なんと神様の気まぐれか、病院側の計らいか、「特別室」という贅沢な部屋を用意してもらったんじゃ。 前回の治療の時は4人部屋でおってな。他人の立てる物音や気配に過敏になり、また自分が立てる音にも細心の注意を払わねばならんかった。周りの空気に気兼ねして、随分と息を潜めて、縮こまってベッドに丸まっとったんじゃ。 じゃが、ここなら天下の個室じゃ。古き良き時代の旦那衆が通う旅館の離れとまではいかんが、自分だけの城。大声で泣こうが、天井を睨んで腹を立てて怒ろうが、はたまた情けない声を喚こうが誰にも迷惑はかからん。四方を壁に守られたその空間に腰を落ち着けただけで、背負い込んでいた心の荷物がフッと軽うなった気がしたわい。これだけでも、今回の戦いには大きな勝機が見えたような気がしたものじゃ。
ベッドに横たわり、天井を睨みながら長時間の点滴を受ける。
ベッドに横たわり、天井を睨みながら長時間の点滴を受ける。透明なチューブを伝って、ジワジワと薬が体に注入されていく。この冷たい液体が身体の細胞と戦うのじゃと思うと、妙な緊張感が走る。 その間、部屋に運ばれてきた晩飯をマイペースに突っついたり、この前手に入れたばかりの新しい相棒・iPhoneをいじくり回したりしてな。昭和生まれのワシにとって、このガラスの板切れはまさに未知の文明の利器。説明書もないまま、不器用な指先で画面を突っつきながら操作を勉強しとるうちに、時間の経つのも忘れてしもうた。気がつけば窓の外はとっぷりと暮れ、あっという間に夜の十時、消灯の時間を迎えたんじゃ。
ところが、世の中そうは問屋が卸さん。
ところが、世の中そうは問屋が卸さん。人生そう簡単に問屋が安売りをしてくれるわけがない。 天井の蛍光灯が消え、部屋が深い闇に包まれた頃から、あの忌々しい「船酔い」に似た感覚が、闇の奥からヌウッと戻ってきおった。胃の底から波のようにせり上がる不快なムカつきに、「ああ、また来たか」と身構えた瞬間じゃ。追い打ちをかけるように、新たな『第七の敵』が暗闇の中で鎌首を持ち上げてきよったんじゃ。
……嗅覚障害じゃ。
……嗅覚障害じゃ。 なんと、急に周りの「匂い」が異常なほど過敏に気になりだして、一睡もできんようになってしもうた。普段、体調が良い時なら鼻にも留めないような、病院独特のあのツンとした消毒液のような薬っぽい匂いが、まるで実体を持ったかのように鼻の奥にベッタリとまとわりついてたまらんのじゃ。 慌てて枕元にあった手元のハンカチを引き寄せ、鼻を覆ってみたんじゃが、頑固な匂いは一向に消えやせん。それどころか、意識すればするほど鼻と喉の奥がヒリヒリと熱を持つように痛みだしてな。神経がジリジリと逆立ち、ますます目が冴えてしもうたわい。
頭はフラフラ、鼻はツンツン。
頭はフラフラ、鼻はツンツン。暗闇の中でじっと耐え、孤独な戦いを続けておるとな、夜中と夜明けの2回、静寂を破るように看護師さんが足音を忍ばせて見回りに来てくれたんじゃ。 パタパタという微かなスリッパの音と、懐中電灯の小さな光が、天井や壁を優しく通り過ぎるのをじっと眺めながらな、ワシは暗闇の中で思った。こんな静まり返った夜中に、ワシの知らないところでも、こうして誰かが起きて、じっと見守ってくれとる。 その冷たい光の温かさに気づいた瞬間、あれほど苦しかった鼻の痛みも不思議とどこかへ吹き飛んでな。ただただ有り難くて、感謝の念で胸がいっぱいになっただのう。世界で一人きりではないのだと、心がじわじわと温まるのを感じた。
敵の数は増える一方じゃが、ワシには心強い個室と、iPhoneと、そして優しい見守り隊がおる。
敵の数は増える一方じゃが、ワシには心強い個室と、まだ見ぬ世界を教えてくれるiPhoneと、そして何より優しい夜の見守り隊がおる。一人で戦っとるわけやあらへんのや、と今なら真っ直ぐに思える。 ま、焦ってもしょうがない。夜が明ければ、また少しは波も落ち着くじゃろう。人生、山あり谷あり、引き潮があれば寄せ波もある。 今は枕元に置いた冷たい水でも一口飲んで、喉を潤しながら、ボチボチと次の朝を待つとしますわ。皆も、誰かの温もりに守られた、ええ夢をみなされよ。では、おやすみなさい。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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