養生草紙 第五十三巻 空回りする心と身体、静かに待つ秋の風
※本記事は筆者個人の体験談であり、医療的な診断・助言や効果効能を保証・推奨するものではありません。症状や治療に関しては必ず専門の医師・医療機関にご相談ください。
朝の玄関を一歩出ると、頬をかすめる風の肌触りが、昨日までとはまるで違うておった。見上げれば、吸い込まれそうなほど澄み渡った高い青空のあちこちに、赤とんぼがすーい、すーいと気持ち良さそうに弧を描いておる。日差しにはまだ名残惜しそうな夏の暑さが残っとるが、日陰に入れば草木が放つ匂いに、確かな秋の深まりを感じさせる。遠くから聴こえてくる小鳥のさえずりや、近所の小学生たちの賑やかな登校の声。どこにでもある、いつもの日常の風景じゃ。けれど、約半年ものあいだ病室の天井を見つめ、消毒液の匂いと機械の電子音に囲まれて暮らしてきたワシにとっては、この朝の空気そのものが奇跡のように尊く、胸の奥がきゅっと締め付けられるような心地がしたわい。
久しぶりのデスクと重たい身体
今日はいよいよ、待ちに待った職場への復帰初日じゃ。病院の検査で主治医から「順調です」とお墨付きをもらい、ようやく社会の輪の中へ戻ってくることができた。入院中に役職は綺麗さっぱり外してもろうとったので、今回は一メンバーとして、上司の直下で特命事項を担当する形での復帰となったんじゃ。約半年もの長い間、突然の離脱で職場には計り知れん迷惑をかけてしもうた。それにもかかわらず、こうして温かく迎えてくれ、無理のない居場所を用意してくれた上司の配慮には、心の底から感謝の念しかあらへん。「よし、今日からまた恩返しのためにバリバリ働くぞ」と、意気揚々と自分の席に腰を下ろしたんじゃがな。
現実は、そう甘くはなかった。席についてパソコンを開き、業務の書類に目を通し始めた途端、身体がまるで鉛のように重たくなっていく。入院前なら朝飯前じゃったはずの作業なのに、ただ椅子に座って画面を眺めているだけで、腰や背中が悲鳴を上げ、じっと座っていることすら辛くなってくるんじゃ。体力がここまで落ちておったとは、自分でも想像以上じゃった。
錆びついた頭と折れそうな心
身体のしんどさもさることながら、それ以上にワシを打ちのめしたのは「頭の回転」の遅さじゃった。同僚や上司から「自由爺さん、これどう思う?」と意見を求められても、頭の中に分厚い霧がかかったようで、言葉がうまく組み立てられん。自分でも何を言うとるのか分からんような、とんちんかんな回答を口にしてしまい、相手が一瞬見せる困惑の表情に気付いては、冷や汗が背中を伝う。
判断を下し、現場を仕切っていたあの頃の自分は、一体どこへ消えてしもうたんじゃろうか。情けなさと恥ずかしさで、胸が押し潰されそうになる。「病気は乗り越えたはずなのに、ワシはもう使い物にならん体になってしまったんやろか」「本当に元の状態に戻れる日が来るんかいな」と、弱気な声が頭の中をぐるぐると回り、心がポキリと折れそうになってしもうた。おまけに、ふとした瞬間に「もしまた、あのがんの影が暴れ出したらどうしよう」という再発への恐怖が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。
そんな惨めな思いで俯いとるワシを、上司は何も言わずにただ静かに見守ってくれておった。とんちんかんな受け答えをしても決して責めず、焦らすこともなく、「自由爺さん、今日はお茶でも飲んでゆっくりいきましょう」と柔らかく声をかけてくれる。その無言の優しさが、どれほど荒んだ心に染み渡ったか分からん。出来の悪い部下を黙って席に置いてくれている上司の懐の深さに、ただただ頭が下がる思いじゃった。
焦らずに踏み出すリハビリの一歩
帰り道、夕暮れに染まる播州の空を仰ぎ見ながら、ふと昔、道場で汗を流していた若かりし日々を思い出した。激しい稽古で怪我をして、しばらく道場を離れた後、久しぶりに道着を着た日のことじゃ。頭では技の軌道が分かっとるのに、足腰が全くついてこず、思うように受け身すら取れんかった。あの時、先輩がかけてくれた言葉が、今になって鮮やかに蘇ってくる。「焦るな。一度傷ついた体と心はな、赤ん坊が歩き方を覚えるように、一歩ずつ時間をかけて馴染ませていくもんや」とな。
そうじゃ、今のワシに必要なのは、かつての自分と比べて嘆くことやない。半年も命がけの戦いをしてきたんじゃから、頭も身体も、そして心も、いま必死にリハビリをしとる真っ最中なんじゃ。錆びついた歯車に少しずつ油を差すように、焦らず、ゆっくりと慣らしていけばええ。と言い聞かせた。
それぞれの荷物を背負うあなたへ
人生を歩んどると、病気や怪我、あるいは思いもよらん挫折によって、今まで当たり前にできていたことが突然できなくなる夜があるもんじゃ。周囲の期待に応えられず、自分だけが取り残されたような孤独に苛まれ、布団の中で悔し涙を流すこともあるじゃろう。真面目な人ほど「早く元に戻らねば」「迷惑をかけてはいけない」と自分を追い込んでしまう。けれどな、どうか自分を責めんといてほしい。立ち止まってしまう日があっても、うまく笑えない日があっても、あなたは今日という一日を懸命に生き抜いたんじゃから。
ま、焦ってもしょうがない。 急に元の自分に戻ろうと背伸びせんでええ。 今日一日を職場でおとなしく過ごせただけでも、今のワシにとっては十分すぎる大金星じゃ。 明日もまた、温かいお茶でもすすりながら、自分のペースでボチボチやっていきますわ。 皆も無理して格好つけんと、心と体をいたわりながら、ええ夢をみなされよ。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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