第一話 文明の利器がやってきた
わしが定年退職の日を迎えたときの話じゃ。よく聞くじゃろ、「肩の荷が下りた」なんて言葉。
ところが不思議なことに、わしの胸にあったのはそれより先に、「さて……ここから、何をして遊ぼうか」
という、ずいぶんと生意気な気持ちじゃった。
三十八年。時計に追われ、責任に追われ、仕事という名の流れに身を任せて泳いできた。
今思えば、よう溺れんかったもんじゃ。その反動かもしれんのう。
そこで、わしは決めた。
――これはもう、自分に褒美をやらにゃあかん、と。買ったのは、五つの文明の利器じゃ。
3Dプリンター。レーザー彫刻機。ドローン。アクションカメラ。そして、エアスプレーガン。
宅配の兄ちゃんが来るたび、箱が一つ、また一つと増えていく。気がつけば、部屋の隅が「工房予定地」になっとった。
それを見た家族の反応?まあ、想像どおりじゃ。「また、そんなもん買って……」呆れ顔に、ため息。ちょっと笑って、ごまかすような視線。
確かに、生きていくのに必須かと聞かれりゃ、どれも首をひねる道具ばかりじゃ。
けどのう。わしの胸の奥では、ずっと冬眠しとった何かが、むくっと起き上がっとった。
――始まるぞ。その予感だけで、心がそわそわして、足取りが軽くなる。この感覚、何十年ぶりじゃろうな。
最初に描いた構想は、そりゃあもう欲張りじゃった。
3Dプリンターで、世界に一つのルアーを作る。塗装で色を吹き、レーザーで模様や名前を刻む。それを持って釣りに出かけ、
ドローンで魚影を探し、アクションカメラで、水中やヒットの瞬間を記録する。
頭の中では、もう一本の映画が完成しとったわ。エンディング曲まで流れとったかもしれん。
……が、現実はそう甘うない。
3Dプリンターは、つまみ一つで機嫌が変わる。レーザーは、焦がしすぎるとすねる。塗装は、風と湿度と、なぜかわしの気分にも左右される。
ドローンは準備が命、アクションカメラは角度ひとつで別世界じゃ。
正直、何度も思った。「難しいのう」「わからんのう」
ところがじゃ。不思議なことに、そのたびに、だんだん楽しくなってくる。
説明書を読む。動画を見る。試す。失敗する。また最初に戻る。
その繰り返しの中で、最初の計画とは違う考えが、次から次へと湧いてきよる。
ルアーだけじゃない。ちょっとした生活道具も作れそうじゃ。レーザーで刻んだ木片は、看板や表札になるかもしれん。
塗装の練習で塗った板切れが、妙に味のある一枚になる。ドローンで撮った空には、懐かしい景色が映り込む。
アクションカメラは、釣りよりも、日常の小さな冒険を記録する相棒になった。気がつけば、時計を見んようになっとった。
昼やと思っとったら夕方で、夕方やと思っとったら夜じゃ。「時間を忘れる」この言葉の意味を、久しぶりに体で思い出した気がしたわ。
この工房は、まだ完成しとらん。たぶん、完成することもない。学ぶたび、作るたび、少しずつ姿を変えていく場所。
文明の利器というのは、便利な道具である前に、好奇心を叩き起こす装置なんじゃな。
家族の呆れ顔の向こうで、わしは今日もワクワクしとる。
何かが始まった。間違いなく、そう感じとる。
――さて。次は、何を作ろうかのう。

