養生草紙 第五巻:九時間の静寂、父の背中と重なる夜 (診断結果が出る前日)
審判の前夜
いやはや、人生には時折、しんと静まり返って、自分の心臓の音だけが大きく聞こえるような夜があるもんじゃな。
一通りの検査を終えて、いよいよ明日は医師からの「審判」が下るという、その前夜。いつも通りに夕飯を済ませ、体裁だけは普段と変わらぬ顔をして布団に潜り込んだものの、目蓋を閉じても一向に眠気がやってくる気配がねぇ。部屋の片隅に置いた古い柱時計が、コチ、コチと規則正しい音を刻んでいる。普段なら気にも留めないその音が、今夜に限っては、まるでワシの命の残り時間をカウントダウンしているかのように、やけに鋭く耳の奥に突き刺さってくるんでさぁ。
正直なところ、検査を受けている最中は「なんやかんや言うて、大したことありませんでしたな」なんて笑い飛ばしてもらえることを、心のどこかで願っとったんじゃ。
「いやぁ、お騒がせしました」と頭を掻きながら病院の門を叩き、その足でなじみの店にでも寄って、熱い一杯を喉に流し込む。そんな都合のいい結末を、何度も頭の中で思い描いておりやした。人間、土壇場になれば誰かて奇跡の一つも期待したくなるもんやんか。自分の都合の良いように現実をねじ曲げて、最悪の事態から目を背けたくなるのが、人の悲しい性(さが)というやつでございますな。
ところが、いざ床に就いて、宣告まであと九時間という時になってな。
静まり返った部屋の暗がりの中で、じっと天井を見つめとったら、ふっと「ああ、もう元の自分には戻れんのかもしれんな」という不吉な予感が、冷たい風のように心を吹き抜けていったんじゃ。
それまでは、どこか他人事のように構えていた病の影が、突如として生々しい輪郭を持ってワシの胸の上にのしかかってきた。一度その予感に取り憑かれると、もういけねぇ。布団の温もりがちっとも体を温めてくれないような、底冷えするような感覚がじわじわと広がっていきやす。
というのもな、不意に、若くして逝った親父のことを思い出してしもうてな。
親父も肺の病で、五十という働き盛りにこの世を去った。当時は医療のからくりも今ほど進んじゃいねぇ時代で、病床で息を荒くしながら、日に日に痩せ細っていった親父の背中を、ワシはただ後ろから見つめることしかできなかった。あの時の、家の中に漂っていた線香と湿った空気の匂い、そして家族全員が息をひそめて暮らしていた重苦しい日々が、何十年という歳月を飛び越えて、鮮明に蘇ってきたわけでございます。
今のワシの状況が、当時の親父の姿と重なって、まるで古い白黒映画を見せられとるような気分になったんじゃ。血は争えんと言うが、こんなところでオーバーラップせんでもええのになぁ、と独りごちてみたりしてな。運命の悪戯にしちゃあ、少々悪趣味が過ぎるんじゃないかと、暗闇に向かって小さく苦笑いを浮かべるしかございやせんでした。
真っ暗な部屋で刻一刻と迫る時間は、普段の何倍も長く、それでいて残酷なほど速く感じられる。
時計の針が夜中の二時、三時と進むにつれ、夜の静寂はますます深まり、世界にワシ一人だけが取り残されたような錯覚を覚える。怖くないと言えば嘘になる。足の先から冷えてくるような心細さは、幾つになっても慣れるもんやない。どれほど修羅場をくぐり、人生の酸いも甘いも噛み分けてきたつもりでも、己の命の終わりを予感させる闇の前では、一人の無力な人間に戻っちまうもんでございます。
けれどものう、こうして不吉な予感と向き合うとる時間も、またワシの人生の大事な一部なんじゃろう。
この恐怖も、心細さも、すべてはワシが今、生きて息をしているからこそ味わえる特権のようなもの。そう考えると、不思議と腹の底がじわじわと据わってくるのを感じやした。ジタバタしても夜は明けるし、判決の時間はやってくる。明日の朝になれば、いやでも現実の光が診察室を照らし出す。それなら、怖気づいて震えとるよりは、「さて、どう受け止めてやろうか」と、腹を括るしかない。
親父が五十で倒れたのなら、ワシはそこから先の景色を、この目でしっかりと見て、自分の足で歩いてやろうじゃないか。そんな妙な意地が、胸の奥で小さく鎌首をもたげたんでさぁ。
さあ、あがいても、あと数時間。
東の空が白み始めれば、もう賽は投げられる。今はただ、この静かな夜の冷たさを噛みしめながら、明日の朝を待つことにするわ。何が起きても、それはそれ。ワシはワシの道を歩むだけや。どんな審判が下ろうとも、ワシという人間の芯まで病に売り渡すつもりは毛頭ねぇ。
皆も、穏やかな夜を過ごしなされ。……おやすみ。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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