養生草紙 第九巻 覚悟の坊主頭、鏡の中の「よし大丈夫」  (気合い 決意)

髪を落として、覚悟をまとう

いやはや、いよいよ入院を明後日に控えてな。

カレンダーの数字が近づくにつれ、家の中の空気もどこかそわそわと落ち着かなくなってきた。荷造りはとうに済ませ、愛用の道具たちもしばしの留守を預かるように棚の奥へ整然と並べた。あとはその時を待つばかりという段になって、ワシは上着を羽織り、意を決して、長年通い慣れた近所の床屋へ行ってきたんじゃ。

ガラガラと引き戸を開けると、いつものようにシャンプーとトニック剤が混ざり合った、あの昭和の香りが鼻をくすぐる。耳に心地よいラジオの音と、ハサミが規則正しく噛み合うチキチキという音が響く、いたって平穏な日常の空間。しかし、今日ばかりはワシの胸の内は、平穏とはほど遠い波風が立ち騒いでおりやした。

目的はただ一つ、頭を丸めること。

これから始まる抗がん剤治療で、髪が抜け落ちるということは前もって医師から詳しく聞いとった。薬の力で病の根を断つためとはいえ、その副作用は容赦なく体に現れる。朝起きて枕を見るたび、風呂で頭を洗うたび、パラパラと手のひらに残る髪を失っていく自分を鏡で見ることになるんじゃろう。それを毎日、毎日、数ヶ月にわたって繰り返す。そんな己の姿を想像したら、心がじわじわと、ヤスリで削られるように磨り減っていきそうで、どうしても気持ちが負けてしまいそうで怖かったんじゃ。

病気との戦いは、目に見える身体だけのもんやない。本当の勝負は、目に見えぬ心の持ちよう、気力の張り合いにある。治療の苦しみに耐えかねて、心がポキッと折れてしもうたら、そこですべてが終わってしまうような気がしてのう。五体の元気が残っていても、戦う意志を失えば病に魂まで喰い尽くされてしまう。それが何より恐ろしかった。だからこそ、先手を打って自分の手で決着をつけたかったんでさぁ。

「思い切って、バリカンで一気に丸めてくれ」

鏡越しに床屋の親父さんにそう頼むと、親父さんは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、ワシの目の中に宿るものを察してくれたんじゃろう。余計なことは何も聞かず、「よし、分かった」と短く応えて、大きな白いケープをワシの首元に固く巻きつけてくれやした。

ブーンという低い唸りを上げて、冷たい金属の刃がワシの頭頂部に触れる。

バリカンが頭を通るたび、長年連れ添ってきた髪の毛が、音もなくハラハラと白いケープの上に落ちていく。そのひと払いごとに、胸の中に澱(おり)のように溜まっていた、あの「余命二年」という宣告への恐怖や、明後日からの治療への不安、情けなさといった自分の弱気も一緒に、根こそぎ刈り取られていくような心地がしたわい。鏡の中で自分の輪郭が少しずつ変わっていくのを、ワシはじっと瞬きもせずに見つめておりやした。

四十八にしては、ちと早い隠居スタイルかもしれんが、今のワシにはこれが必要な儀式やったんや。他人にどう見られるかなんてなぁ、どうでもええ。これは世間体を取り繕うための散髪じゃなく、これから始まる長い嵐を乗り越えるための、泥臭い鎧をまとうようなもんでございますから。

散髪を終え、親父さんが最後に温かい蒸しタオルで頭を包んでくれたとき、じわっとした熱さと共に、不思議な爽快感が頭皮から脳の芯まで突き抜けていきやした。

家に帰って、すぐさま洗面所の鏡の前に立ってみた。

西日が差し込む薄暗い洗面所で、鏡に映っていたのは、青々とした見事な坊主頭でござんした。そこに佇んでいたのは、病の影に怯え、自分の運命を呪って震える哀れな男の顔じゃあなかった。厳しい現実をしっかりと見据え、どんな苦難が来ようとも一歩も引かずに戦う覚悟を決めた、一人の男の引き締まった顔がそこにはありやした。髪を失ったことで、かえって目つきが鋭くなり、腹の底にある本当の芯が見えてきたような、そんな奇妙な力強さを感じたもんで。

思わず、「よし、大丈夫」と独り言が口をついて出たよ。

静まり返った洗面所に、自分の声が妙にハッキリと響きやした。誰に言うたわけでもない、自分自身への精一杯の鼓舞やな。この「大丈夫」という四文字が、どれほど頼もしくワシの背中を支えてくれたことか。

髪がなくなるのは、男としての誇りを少し失うようで、やっぱりどこか寂しいもんじゃが、これで余計な雑念も綺麗さっぱり掃けた。未練がましく残った髪を気にするくらいなら、何もかもを脱ぎ捨てて身軽になった方が、戦いやすいというもんでござんす。格好ええもんやないが、この潔い頭で、明後日からの白一色の戦場へ向かうとするわ。

ま、形から入るのも一つの養生や。

心と体は繋がっていると言うが、体裁をガラリと変えることで、心が引っ張り上げられることもある。皆も、もし人生の途中で壁にぶつかり、心が沈みそうな時があったら、何か一つ、自分の手で「決着」をつけてみるとええ。部屋の模様替えでも、古い服を捨てることでも、なんでもええんじゃ。自分の意志で一歩を踏み出すことで、少しだけ、前が見えるようになるかもしれんぞ。

さて、今夜は磨き上げた頭を冷やさんようにして、毛布を深く被って早めに休むとしよう。明後日からの戦いに備えて、今夜はただ、この新しく生まれ変わった己の身体を慈しむ時間でござんす。

【ワシからのお願い(免責事項)】
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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