養生草紙 第十巻:はち切れんばかりの焼肉、明日への誓い (入院前の最後の晩餐)
入院前夜の御馳走
いやはや、いよいよ入院前夜じゃ。
カレンダーを睨みつけながら「あと何日、あと何時間」と数えていた日々も、ついに終わりを迎えやした。明日の朝には、あの白一色の無機質な世界へ足を踏み入れ、しばらくは娑婆(しゃば)の空気ともお別れになる。家の中を見渡せば、几帳面に整理された書類や、出番を失って静まり返った道具たちが、どことなく寂しげにワシを見つめているような気がいたしやす。今夜ばかりは「養生」なんて小難しい言葉は横に置いてな、ワシの我儘を徹底的に通させてもらったんじゃ。
最後の夜は、肉を腹一杯食う。そう心に決めとった。
病気を患ってからというもの、体に良いもの、消化に優しいものばかりを気遣って、どこか縮こまった食生活を続けていやした。けれど、これから始まる大戦(おおいくさ)を前にして、草の根ばかり突っついていたんじゃあ戦(いくさ)に勝てねぇ。男なら、ここ一番の勝負の前にはドカンと景気のいいものを胃袋に叩き込むのが江戸前ってぇもんでござんす。
家族の背中を促すようにして家を出て、夜の帳(とばり)が下りた街を歩く。向かった先は、長年家族で通い詰めた、路地裏にある馴染みの焼肉屋でございました。
年季の入った木製の引き戸を開け、馴染みの焼肉屋の暖簾をくぐった時の、あの香ばしいタレと脂の匂い……。換気扇から漏れ出す煙が白く立ち込め、店内に満ちる他愛のない笑い声や、ジョッキが触れ合う賑やかな音。それだけで、凍りつきそうだった足元から、少しだけ力が湧いてくるような気がしたわい。ここには病気の影も、余命の宣告もねぇ。いつもの、ありふれた幸福な時間がそのまま転がっている。
「これが、まともな食事としては最後かもしれん」
注文した特上のカルビやロースが盛られた皿を前にしたとき、そんな不吉な考えが頭をよぎらなんだと言えば嘘になる。これから始まる抗がん剤の治療が始まれば、吐き気で水すら喉を通らなくなるかもしれない、味覚が変わって砂を噛むようになるかもしれない。そんな医者の説明が頭をかすめ、一瞬だけ箸を持つ手が止まりそうになりやした。
けれどものう、そんな湿っぽい顔をして食うても肉に申し訳ない。肉は自らの命を差し出して、ワシの血肉になろうとしてくれているんじゃ。ならば、こちとらも男らしく、真正面から全力で受け止めるのが礼儀ってぇもんでしょう。
網の上でじゅうじゅうと音を立て、脂を滴らせながら弾ける肉を、次から次へと口に放り込みやした。タレをたっぷりと絡ませて白飯と一緒に掻き込む。口いっぱいに広がる肉の旨味と、焦げた醤油の香ばしさ。家族もまた、ワシの覚悟を察してか、余計な気遣いの言葉は一切口にせず、「お父さん、これも焼き上がったよ」と、次々に網の上の肉を皿に盛ってくれる。ただひたすらに、賑やかに、腹がはち切れんばかりに食べて、食べまくってやった。
不思議なもんやな。
胃袋がパンパンに満たされると、あれほど夜を徹して騒がしかった心の不安が、少しだけ静かになったんじゃ。脳みそでいくら考えても解の出ない恐怖が、温かい肉の脂で満たされた胃袋に押しつぶされるようにして、すうっと鳴りを潜めていくのが分かりやした。
これで思い残すことはない。自分の足で行きたいところへ行き、食いたいものを食う。四十八の男として、入院前に「やれることは全てやった」という、一種の清々しささえ感じとるよ。先日、床屋で綺麗さっぱり刈り落としたこの青々とした坊主頭と、今夜の我儘で脂の乗ったこの腹。鏡に映る姿はなんともちぐはぐで、滑稽な格好かもしれんが、これこそが今のワシの精一杯の戦闘服や。恐怖を脱ぎ捨て、感謝を胃袋に詰め込んだ、世界にたった一つの鎧でござんす。
明日、病院の大きな門をくぐったその瞬間からは、仕事のことも、家を空ける申し訳なさも、全部一旦忘れることにした。
残される家族のこと、職場の仲間のこと、気がかりを数え上げたらキリがありやせん。けれど、中途半端な気持ちで戦場に赴けば、それこそ足元をすくわれちまう。明日からは、ただ自分の身体のことだけを考える。そう、心に深く誓ったんじゃ。それは決して我がままじゃなく、必ずここへ生きて戻ってくるための、男の義務のようなものだと肚(はら)が決まりやした。
ま、今夜は消化を助ける程度に少しだけ起きて、温かいお茶でもすすりながら、明日に備えて深く眠ることにするわ。
皆も、今日という日の「最後のご馳走」を、噛みしめて食べなされよ。誰かと囲む食卓の温かさ、口にする食べ物の有り難み。それが当たり前にあるうちに、しっかりと五感で味わっておくれやす。
さあ、あがいても泣いても、夜が明ければ一勝負してくるか。また、ボチボチとな。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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