太公望の戯れ 第九話 爺、ルアーの値札に腰を抜かす
翌朝。 時計の針が九時を回ったあたりから、もう居ても立ってもいられんかった。十時の開店が、これほど待ち遠しくて仕方がないのはいつ以来だろうか。 カレンダーを何度も見返した遠足の日の小学生じゃ。いや、下手をすればあの頃の自分よりも落ち着きがなく、部屋の中をウロウロと徘徊しておったかもしれん。
軽自動車のハンドルを握り、お目当ての大型釣具店へ滑り込んだのは、開店の数分前。自動ドアが開くと同時に、はやる気持ちを抑えきれずに足を踏み入れた。真っ先に向かったのは、色とりどりのパッケージが並ぶルアー売り場じゃった。
そして。 お目当てのコーナーへたどり着いた瞬間、爺は文字通りその場で凝視したまま固まってしもうた。
「……え?」
我が目を疑うとはこのことじゃ。値札を二度見し、思わず老眼鏡をずらして見直してみる。
「これ、一個の値段か……?」
千五百円。二千円。まだそれは序の口だった。さらに向こうの棚を覗いてみれば、四千円、五千円。中には、ちょっとした高級セーターでも買えそうな値段のルアーまでが、仰々しく並んどるではないか。
「うそやろ……」
思わず乾いた声が漏れた。 昔だって、ルアーは子供の小遣いからすれば十分に高価な代物じゃった記憶はある。じゃが、物価の波に揉まれた現代のルアーフィッシングが、ここまで「大人の貴族の遊び」になっとるとは夢にも思わなんだ。
一つ手に取ってはため息をついて戻し、別の棚へ行ってはまた戻し。買いたい気持ちと財布の紐が激しく脳内で綱引きを始め、店内を何周もグルグルと彷徨う。客観的に見れば、完全に不審者そのものである。
頭の中の計算機は、すでに煙を吹くほどのフル回転じゃ。ナマズ用にあのバタバタ泳ぐやつ、雷魚用にあのカエル、そして鯉用のパン擬き……。あれも欲しい、これも欲しいとカゴに入れようものなら、予算なんてものは一瞬で木端微塵に吹き飛んでしまう。 これでは、川へ行って糸を垂らす前に、我が家の家計がバックラッシュを起こして大炎上してしまうではないか。
結局、散々迷った挙句に、「……今日は、これくらいにしとくか」と、寂しく手に取ったのはワームじゃった。 柔らかいゴム製の疑似餌で、十本ほど入って八百円くらい。 「まあ、昔もこいつには随分と世話になったしな。まずは基本のキ、ここから手堅く始めるのが大人の男の引き際よ」 そう自分に言い聞かせ、トボトボと会計を済ませて車へと戻ったのじゃ。
スマホの中の救世主と、釣具界のドン◯ホーテ
運転席に座り、エアコンの風を浴びながら、未練がましくスマホを取り出す。早くも第一回の一人作戦会議の始まりである。 画面の地図を指でスクロールしながら、近所の川のポイントをおさらいしていると――画面の片隅に、見慣れた鮮やかな黄色いマークがひょっこりと現れた。
中古釣具屋じゃ。
「おおっ!」
その瞬間、爺の目にカッと熱い光が宿った。こういう時の行動の早さだけは、二十代の頃と少しも変わらん。すぐにエンジンを掛け、数分後にはその店の駐車場へ車を滑らせとった。
手動の扉をくぐり、店内に足を踏み入れた瞬間、思わず「ぶはっ」と一人で笑ってしもうた。 さっきまでいた大手の釣具店が整然とした高級百貨店なら、こちらはまさに釣具界のドン・キホーテ。あるいは、昭和のガード下にある怪しいジャンク屋じゃ。 所狭しと並んだラック。ロッドも、リールも、ルアーも、まるで地層のように天井近くまで積み上がっとる。
「これや、これこそが俺たちの遊び場よ」
腕捲りをせんばかりの勢いで、宝探しの冒険が始まった。埃っぽい棚を、目を皿のようにして一つひとつ丁寧に検品していく。 すると、どうじゃ。
「えっ!?」
あまりの衝撃に、思わず足がピタリと止まった。 安い。とにかく、呆れるほどに安い。 さっき見た新品の価格の半額は当たり前。三分の一、ものによっては、ワンコイン以下で投げ売りされているルアーがゴロゴロと転がっておる。
もちろん、どれもこれも年季が入っとる。前の持ち主が何度もキャストしたのだろう、フックが擦れた傷跡や、コンクリートにぶつけたような塗装の剥げがある。じゃが、使い込まれた道具が放つ独特の渋み、それがええ。戦場を潜り抜けてきた男の勲章みたいなもんじゃ。
四十五年前へのタイムスリップと、伸縮する予算
さらにワゴンセールのカゴの奥底をガサゴソと漁っていくと、プラスチックの擦れ合う音とともに、記憶の奥底に眠っていた懐かしい名前たちが、次から次へと飛び出してきた。
「あっ! ラパラや! このお腹の曲線がたまらんのよ!」 「あっ! ピーナッツ! 昔これでおけらになるまでバスを探したなぁ!」 「あっ! クレイジークローラー! このセミの羽みたいなのが最高に愛おしい!」 「あっ! ビッグバド! 缶ビールの模様のやつ、まだ現役でおったんか!」
その瞬間、頭の中のゼンマイが猛烈な勢いで逆回転を始めた。 四十五年も前の少年時代の記憶が、モノクロから鮮やかなカラー映像へと切り替わり、まるで昨日のことのように蘇ってきたのじゃ。
学校帰りにチャリンコを飛ばして通った、あの狭い釣具屋のガラスのショーケース。 穴が開くほど読みふけった雑誌の記事。 放課後の教室で「あそこの池には主がおる」と熱く語り合った友達との釣り談義。 一ヶ月分の小遣いを握りしめて、震える手で買った初めてのプラグ。
あの頃の情景が、胸が苦しくなるほどの懐かしさとともに一気に戻ってきた。 こうなると、もう川にいるナマズや雷魚のことなど、半分は頭から消し飛んでおる。ターゲットを釣るための道具選びではなく、完全に自分自身の「思い出釣り」の様相を呈してきた。
気がつけば、プラスチックのカゴの中には、丸々と太った懐かしいルアーたちが次々と増殖しとった。 ナマズ用にピッタリのカエルも入った。水面を騒がせるトップウォーターも入った。何に使うのかよく分からんが、顔が気に入った妙なプラグまで入っとる。 そして、気付けばこちらの店でも、当初予定していた予算枠のギリギリ天井まで積み上がってしまった。
本当に不思議なもんじゃ。釣具屋という空間に足を踏み入れると、財布の中の予算というものは、まるでゴムのように都合よく伸び縮みするらしい。
助手席の戦利品と、幸せの総量
レジで愛想のいい店員に支払いを済ませ、ずっしりと重くなったビニール袋を抱えて車に戻る。プラスチックのパッケージが擦れ合う「カラカラ」という小気味よい音が、なんとも心地いい。 大事な大事な戦利品たちを、傷がつかないよう助手席の特等席へそっと並べた。
帰りの道中、我が家へと向かう車の中は、最高のご機嫌ドライブじゃ。 赤信号で車が止まるたび、ちらりと左横を見る。傷だらけのルアーたちと目が合う。ニヤニヤする。 青信号になって車を走らせ、次の交差点でまた赤に捕まる。また横を見る。さらに深くニヤニヤする。
バックミラーに映る自分の顔を見て、ふと思った。たぶん、すれ違う車のドライバーや、歩道の歩行者から見たら、「一人で運転しながら怪しく笑い転げている不気味な爺さん」に映っていたに違いない。 じゃが、そんなことは知ったことか。仕方のないことなのじゃ。
現時点で、川の魚はまだ一匹も増えとらん。それどころか、竿すら伸ばしていない。 それなのに、私の胸の奥にある「幸せ」の総量だけは、確実に、そして爆発的に増えとったんじゃから。
さて。我が家に帰ったら、まずはフックを新品に交換して、油でも注してやろうか。 次はどいつに、あの懐かしい水面で一働きしてもらおう。 爺の頭の中にある妄想の釣り場では、すでに仕留めきれないほどの大魚たちが、何度も何度も水面を割って大跳ねを繰り返しておる。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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