養生草紙 第三十六巻 夏の日差しと、ノリの良い曲に流す涙 (異常な瞼の重さ)

いやはや、参った。
病室の無機質なベッドに横たわり、窓のアルミサッシ越しに眺める景色にも、いささか飽き飽きしてきとったんじゃ。四角く切り取られた空を雲が流れていくのを、ただぼんやりと眺めるだけの日々。そんな退屈な日常に、パッと一筋の光が差し込むように、ありがたいことに2回目の帰宅許可が出たんじゃ。


病院の重い自動ドアが一歩外へ開けば、そこはもう別世界。ジリジリとした強烈な日差しが容赦なく降り注ぎ、アスファルトからは陽炎が立ち上っておる。早くも本格的な夏の訪れを肌で感じさせるのう。蝉の声こそまだ聞こえんが、空気の匂いは完全にあのギラギラした季節のそれじゃ。
我が家に帰れるというのは、何物にも代えがたい最高の喜び。玄関の引き戸を開けた瞬間に香る畳と我が家独特の匂いに、思わずホッと胸をなでおろす。しかし、今のワシには「食道炎」という、なんとも品性のない厄介な敵が胃の入り口あたりにドカッと居座っとう。


家族には事前に今の情けない症状を詳しく伝えておいた。おかげで、食卓には工夫を凝らした料理が並ぶ。固形物はすべてサイコロのように小さく刻まれ、箸で簡単に崩れるほど柔らかくクタクタに調理してくれとるんじゃ。家族の温かいおもてなしには感謝の言葉もない。その優しさに甘えて口に運べば、工夫してもらったおかげでなんとか喉は通るんじゃが……どうにも食べた気がせんのよ。


まるで雲を掴むような、あるいは砂を噛むような、頼りない食感。喉を通り過ぎる感覚だけはあれど、胃袋が歓喜の声を上げるような満足感には程遠い。かと言って、これ以上詰め込めるわけでもない。満腹でも空腹でもない、なんともビミョーな感覚に襲われる。かつては美味いものを豪快に平らげていた食いしん坊の爺としては、箸を持ったまま、ちと寂しい食卓にため息を漏らすばかりじゃ。
それでも、ここでじっとしとったら体力がガタ落ちしてしまう。病気に負けたらあかん思うて、日中はなるべく外へ散歩に出るように心がけとるんじゃ。


一歩外へ出れば、播州の慣れ親しんだ見慣れた景色が広がっとる。田んぼの水面が太陽を反射してキラキラと輝き、遠くの山々の青さが目に染みる。この空気を吸いながら歩くんは、本当に気分が良い。
じゃが、悲しいかな、気持ちとは裏腹に体が全くついてこんのう。かつてはいくらでも歩けた道なのに、ものの30分も足を動かせば、鉛を仕込まれたように足取りが重くなる。どっと重苦しい疲れが津波のように押し寄せてきて、心臓は早鐘を打ち、額からは油汗がにじむ。我が家に這う這うの体で戻り、すぐに畳の上へ横にならんと体が保たへんのじゃ。己の衰えを突きつけられるようで、横になりながら天井を見るのは切ないもんや。
せっかく家にいる間は、病院では集中して読めなかったお気に入りの本をパラパラとめくったり、昭和の懐かしい名作映画でも観て、贅沢に時間を過ごそうと楽しみにしとった。ところがじゃ、ここで予想だにしない「6番目の敵」が容赦なく襲いかかってきおった。


とにかく、瞼が異常に重いんじゃ。

寝不足というわけでもないのに、本を開いた瞬間、画面を点けた瞬間に、瞼の裏側に強力な磁石でも仕込まれているかのように、ピタッと強制的に閉じてしまう。抗おうと目を見開いても、強烈な睡魔の力には勝てん。これでは大好きな読書も映画も、涙をのんで諦めざるを得ん。
結局、目を使わずに耳だけで済む「音楽を聴くこと」だけが、今のワシに残された唯一の楽しみになった。ステレオの前に座る気力もないから、イヤホンを耳の奥にそっと差し込んでみる。流すのはもちろん、ワシが若かりし頃の、あの最高に輝かしかった80年代のポップスじゃ。


大好きな大滝詠一やナイアガラ・サウンドの、あのカラフルでアップテンポで、底抜けにノリの良いメロディーが耳の奥で弾ける。リゾートの風を感じさせるような軽快なベースライン、きらびやかなアコースティックギターの音色。本来なら心がウキウキと躍り出すはずの音楽なんじゃ。
しかし、どうしたことか。音楽が陽気で眩しければ眩しいほど、その光が強い影を作り出すように、不思議とワシの心はどんどん暗い泥沼の方へと沈んでいってしまうんじゃ。


あの頃の自分は若く、健康で、未来への希望に満ち溢れとった。それに対して、今の自分はどうや。「どうしてワシが、こんな大病になってしもうたんやろ……」という割り切れぬ思いが首をもたげる。これから先、さらに治療が進めばもっと体に異変が出て、最後には自分の力で立ち上がることも、何もできんようになってしまうんやないか。そんな底なしの恐ろしさと孤独感が、黒い煙のように頭をよぎってな。ノリノリの夏ソングを聴きながら、ワシは一人でじっと暗い天井を睨みつけ、拳を握りしめとったんじゃ。


その日の夜、久しぶりに我が家のお風呂の湯船に浸かっとった時のことじゃ。
病院の機能的で素っ気ない浴室とは違い、使い慣れた我が家のお風呂はやはり落ち着く。湯気が立ち込める中、温かいお湯に首まで体を預けながら、ふと思ったんじゃな。
「そういえば、あれほど覚悟しとった髪の毛の抜け落ちが、今のところ全くないなぁ」と。
抗がん剤を使えば、ごっそりと枕に髪がつくものと怯えておった。現時点でそれがない。抜けへんのは本来なら手放しで嬉しいはずなんじゃが、人間の心とは厄介なもので、逆にそれが怖うなってしもてな。
「今回はたまたま免れただけや。きっと、次の3回目の抗がん剤治療が始まったら、その強い毒気で一気に全部抜け落ちるんやろな……」
そう思ったら、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れて、もう堪えきれんくなった。


浴室のタイルは冷たく、外は静まり返っとる。湯船の中で一人、震える手で体を洗いながら、涙がポロポロと溢れて止まらんようになってしもうたんじゃ。お湯の温かさと涙の熱さが混ざり合って、顔中がぐしゃぐしゃになる。ノリの良い80年代の音楽にも、体を包み込む温かいお湯にも、ワシの弱り切った心は救いきれんかった。情けない話じゃが、これが虚勢を張っていない、今のワシのありのままの格好悪い姿じゃ。
ま、男の涙もお湯に流してしまえばそれまでよ。排水口へと吸い込まれていく涙と一緒に、胸のつかえも少しだけ流れていった気がする。


泣くだけ泣いたら、不思議なもんで、腹の底が少しだけドシッと据わったような気もするんじゃ。不安が完全に消え去ったわけやない。次のがん治療のことを考えれば、今だって足がすくむほど恐ろしい。けれど、泣きながらでも、這いつくばってでも、一歩ずつ前に進むしかないんじゃろう。
今日はもう、あれこれ考えるのはおしまい。大好きな音楽に身を委ねて、早めに柔らかい布団に入ることにしますわ。
皆も、生きていれば泣きたい夜もあるやろ。そんな時は無理して我慢せんと、涙と一緒に心の中の悪いもんを全部洗い流してしまいなはれや。

それじゃあ、今夜はこれにて。ええ夢を。

【ワシからのお願い(免責事項)】
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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