養生草紙 第四十一巻 終着点の夜風、それぞれに背負う闇(副作用からの解放)
いやはや、参った。本当に、今回の戦いはこれまでで一番骨が折れたわい。 3回目の抗がん剤ちゅうのは、これまでに身体の奥底へじわじわと溜まってきた薬の蓄積もあったんやろか。ホンマに言葉に尽くせんほど、心も体も容赦なく削られるしんどい闘いじゃった。 一時は「このまま底のない沼に沈んでいくんやなかろうか」と弱気な顔が覗きそうになったこともあったが、明けない夜はないもの。ようやく、あの胃袋をひっくり返されるような忌々しい「船酔い」の嵐も、どうにか終着点にたどり着いたようじゃ。 あの底暗いムカムカが嘘のように静まり、久しぶりに自分の手足が自分の意思でまともに動く感覚、あぁ、生きとるなぁというまっとうな心地を、いま、じんわりと噛み締めとります。
いつもの定例検査をなんとか終え、夕飯も無事に胃袋へ収めてな。
いつもの定例検査をなんとか終え、夕飯も無事に胃袋へ収めてな。 ここ数日の絶不調が嘘のように、運ばれてきた温かい食事を最後の一口まで無事に胃袋へ収めることができたんじゃ。食事が喉を通る、それだけのことが今のワシには何よりの勲章のように思えてのう。 お腹が満たされると、少しばかり胸の閊(つか)えを晴らしたくなってな。ずっと病室の白い天井ばかりを睨みつけとったもんやから、外の空気が恋しくなり、夜風に当たりに病院の屋上へ出かけてみたんじゃ。 重い鉄の扉を押し開けると、そこには懐かしい播州の夜空がどこまでも広がっとった。大きく息を吸い込んで吐き出すと、夜のひんやりとした風が、戦いで火照った老体に実に心地ええ。まるで、頑張ったなと優しく撫でられているような、そんな至福の瞬間じゃった。
ふと周りを見渡せば、そこにはワシと同じように、
ふと周りを見渡せば、そこにはワシと同じように、夜の闇に紛れるようにして佇む患者さんたちの姿があった。 昼間の明るい光の下では隠されている、それぞれの「闘い」の影が、夜の帳(とばり)に包まれた屋上には静かに浮かび上がっとる。 見れば、ある御仁はベンチに腰掛け、手元の小さなクリップライトの明かりを頼りに、黙々と文庫本を読み進めておられる。またある人は、パジャマの裾を揺らしながら、自分の足元を確かめるように一歩一歩、ゆっくりと屋上を散歩しとう。そして少し離れた暗がりでは、大切な誰かに向けて、家のことや体調のことをボソボソと、消え入りそうな声で電話で話しとる人の姿もあった。 誰一人として大声を出す者はいない。みんな、それぞれのやり方で、長くて重い病院の夜を静かにやり過ごしとるんじゃ。
その姿をじっと眺めとったらな、胸の奥がキュッと締め付けられるような気持ちになってのう。
その姿をじっと眺めとったらな、胸の奥がキュッと締め付けられるような気持ちになってのう。 昼間は看護師さんの前で努めて明るく振る舞っとる人だって、ここに集うみんな、心の中は不安で不安で仕方が無いはずなんじゃ。「明日の検査は大丈夫じゃろうか」「薬は効いてくれるんやろうか」と、暗闇の中で足が震えるような恐怖と戦っとる。 けれど、その弱音を外へ吐き出す場所もなくて、家族に心配をかけまいと、全部自分の中で消化させようとしとる。口を真一文字に結び、黙々と歯を食いしばって頑張ってられるんやなぁ、と。その丸まった背中を見つめていると、なんだか人ごととは思えんくて、目頭が熱うなるのを感じたわい。
普通の病気なら「お隣さんも同じやから」と励まし合えるかもしれん。
普通の病気なら「お隣さんも同じやから、一緒に乗り越えよう」と手を取り合って励まし合えるかもしれん。じゃが、がんという病は、本当に性質(たち)が悪い。 治るか治らんかも分からん暗闇のロードマップを歩まされるうえに、隣のベッドの人と全く病状が異なりよるんじゃ。あっちの御仁に劇的に効いた特効薬が、こっちのワシには全く効かんということもザラにある。誰のことも参考にすることができん、前を歩く人の足跡さえ見えんのじゃ。 みんながそれぞれ、自分だけの真っ暗な深い森を、地図も灯りもないまま、たった一人で歩かされとる。 「がんちゅう病気は、なんと孤独で、なんと罪づくりな病気か……」 夜風に吹かれながら、そんな恨めしい思いが頭をよぎらずにはおられんかった。神様もちっとばかし意地悪が過ぎるやないか、とね。
けれどな、屋上に集う背中を見ていたら、
けれどな、屋上に集う背中を見ていたら、一人ひとりが孤独に耐える孤高の闘士のようでもあり、その静かに耐え忍ぶ姿が、どこか気高くも美しく見えたんじゃ。 そこには言葉の交わし合いは一切ない。同じ病室で顔を合わせていても会話すらしない間柄かもしれん。じゃが、この静かな屋上で、同じ播州の夜風を分け合っとる、ただそれだけで、不思議と胸の奥底から「よし、ワシも負けてられんのう」という、静かじゃが消えることのない勇気がフツフツと湧いてくるもんじゃ。私たちは、一人だけど一人じゃない。そんな無言の連帯感が、そこには確かにあった。
ま、考えても病気が消えるわけやなし、焦ってもしょうがない。
ま、考えても病気が消えるわけやなし、焦ってもしょうがない。 クヨクヨしたところで、病魔が退散してくれるわけでもないからのう。あの地獄のような船酔いが明けた、ただそれだけでも、今日のワシにとっては一等賞、大金星よ。 屋上から病室のベッドへと戻り、今日も一日よく頑張ったと自分を褒めてやる。お気に入りの相棒、iPhoneをそっと枕元に置いて、今夜は余計なことは考えず、心穏やかに眠るとしますわ。 皆もな、頑張るのはええことやが、一人で全部を抱え込みすぎんようにな。しんどい時はボチボチ、いきなはれや。今夜はみんなが、誰かの温もりに守られたええ夢をみなされよ。では、おやすみなさい。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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