養生草紙 第四十二巻 暗闇の便所で起きた大波乱、身体が上げた悲鳴の夜(限界)

いやはや、ホンマに参った。とんでもない一日じゃった。一寸先は闇、とはよく言うたもんじゃが、まさかあんなところで人生最大の危機を迎えることになろうとは、夢にも思わんかったわい。

あの素晴らしい裏メニューの明石焼き(玉子焼)のおかげで、一時は喉の痛みもなだめられ、身体の隅々にまでじんわりと温かいエネルギーを注ぎ込むことができたんじゃ。食事が美味しくいただける、あの忌々しい副作用の船酔いもようやく凪(なぎ)に向かい、一息つけると思うた翌日じゃが……やはり、病もちゅうやつはそう簡単には城を明け渡してはくれんのう。

こちらの油断を見透かすように、体の中では相変わらず、いや、むしろ勢力を増して、ありとあらゆる症状がチクチク、ズキズキと暴れ続けとる。 船酔いのような胃の底の不快なムカムカ、指先からジワジワと這い上がってくる痺れ、鼻を突くあの薬っぽい嫌な匂い。さらには目の奥、喉の粘膜、そして背中の節々に至るまで、自分の身体のありとあらゆる場所が「ここに敵がおるぞ」と痛みを主張し続けとるんじゃ。 ちょっと気分転換にベッドから起き上がり、歩いてすぐのトイレに向かうだけでも、足元がクラクラとフラついて、まるで薄い氷の上を歩いとるようで頼りないことこの上ない状態じゃった。

「ホンマに特別室にしてもらって良かったわ……」

「ホンマに特別室にしてもらって良かったわ……」 一歩、また一歩と、弱った足を前に進めながら、心底そう思った。もしこれが、前回の治療の時のような4人部屋で、あの長い長い大部屋の廊下を歩いて共同のトイレまで行かなならんのやったら、今のワシの体力では途中で力尽きて、廊下の真ん中で行き倒れてしもうたに違いない。 プライベートが守られた個室、すぐそこに扉があるという安心感に、どれほど救われたことか。 それほど心許ない、薄氷を踏むような状態じゃったんじゃが、その四方を壁に守られた安心のトイレの中で、世にも恐ろしい「事件」は起きおった。

便座に腰を下ろした途端、急に世界がグワリと歪んだ。

便座に腰を下ろした途端、急に世界がグワリと歪んだ。 天井と床がひっくり返るような猛烈な眩暈(めまい)と、経験したことのない凄まじい気持ち悪さが津波のように襲ってきて、胃の底から激しいえずきが何度も何度も込み上げる。 それと同時に、まるでバケツの水をひっくり返したかのような冷たい脂汗が、頭のてっぺんから全身から一斉にドッと吹き出しおったんじゃ。着ているパジャマが瞬く間に肌に張り付いていく。 耳の奥でキーンと高い金属音が鳴り響き、視界の端からスーッと夜の帳が降りるように真っ暗になっていく。意識の糸がペラペラの紙のようにぷつりと切れかける。

「あ、これはいかん……! 意識を失ったら、そのままお陀仏じゃ……!」

朦朧とする意識、霞む視界の中で、ワシの指先は執念だけで本能的に壁の「緊急ボタン」を捉えた。カチッと、静寂の中に響いた小さなプラスチックの音がしたところまでは、かろうじて覚えとるんじゃが、あとはもう限界じゃった。そのまま前屈みに、冷たい床へ倒れ込んでしもうた模様じゃ。

次に気がついた時は、天井の景色が変わっとった。

次に気がついた時は、天井の景色が変わっとった。 あの狭いトイレの天井ではなく、見慣れた自分のベッドの上の景色。周りでは、「自由爺さん、しっかりして!」「気がつきましたか!?」と、看護師さんたちが慌ただしく、しかし手際よく動いて処置をしてくれとった。 どうやら、あのワシの指先が残した執念のボタンの音を聞きつけて、宿直の看護師さんたちが脱兎のごとく、すぐに助けにきてくれたらしい。 頭はまだ霧がかかったようにぼーっとしとうが、こうして再び目を開け、みんなの顔を見ることができた。なんとか一命を取り留めた、というわけじゃ。

これまで「ワシの体は人一倍頑丈にできとう」「少々のことではへこたれん」と高をくくっとったんじゃが、さすがに今回は、我が身が文字通り「もう限界じゃ」と悲鳴を上げとるのを、この耳でしっかりと聞いた気がしたわい。 長年連れ添った自分の身体への過信は禁物じゃな。相手は一筋縄ではいかん、暗闇に潜む化け物なんやと、その恐ろしさを改めて骨の髄まで思い知らされた。

ま、倒れてしもうたもんはしゃあない。

ま、倒れてしもうたもんはしゃあない。起きてしもうた嵐を悔やんでも時計の針は戻らんからのう。 あの極限の状態の中で、見事に緊急ボタンを押し込めただけでも、ワシの勝ちじゃ。執念の勝利、まさに大金星よ。 今日はこれ以上、一歩たりとも無理をせず、借りてきた猫のように、あるいは大嵐が過ぎ去るのを待つ野ウサギのように、ベッドでおとなしく丸くなっときますわ。相棒のiPhoneも、今日ばかりは枕元で静かに寝かせておくとする。

皆もな、日頃から「自分は大丈夫」「これくらいなら我慢できる」と、自分の身体を過信してはいかんよ。身体ちゅうのは、限界を迎える前に必ず、小さなサインを小出しにしてくれとる。その声に耳を澄ませて、おかしいと思ったら絶対に強がらんことじゃ。 しんどい時に「しんどい」と言うのは、負けやあらへん。ボチボチ、自分の身体の声を聴きながら、労わりながら歩んでいきなはれや。今夜はみんなが、穏やかな夜風に包まれた、ええ夢をみなされよ。おやすみなさい。

【ワシからのお願い(免責事項)】
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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