養生草紙 第四十五巻 髪の毛もっさりの大金星、屋上で吹いた奇妙な先輩風 (副作用)

いやはや、参った。本当に、一歩一歩ではあるが、大きな峠をまた一つ越えることができたようじゃ。 あの地獄のようだった3回目の抗がん剤治療も無事に終わり、皮膚が赤黒く焼けるまで耐え抜いた長かった放射線治療も、ついにすべての照射を終えたんじゃよ。 あれほどワシを苦しめた目に見えん「光の矢」との戦いがひとまず閉幕したとなれば、胸の中に去来するのは「我が家」への恋しさじゃな。これだけ大きな山を越えたんじゃ、次にあの住み慣れた家に帰れる日はいつからかいな、とベッドの上でカレンダーの数字をじっと眺めては、指折り数えて心待ちにする日々を過ごしとったんじゃ。家に帰ったら何を食べようか、相棒のiPhoneで何を調べようかと、そんなことを考えるだけで、少しばかり心が上を向くもんじゃて。

その日もいつもの通り、午前中に血液検査やレントゲン検査を淡々と終わらせてな。

その日もいつもの通り、午前中に血液検査やレントゲン検査を淡々と終わらせてな。 白い天井の検査室をいくつか回り、機械的に進む病院のルーティンをこなしていく。治療の大きな山は越えたとはいえ、喉の粘膜はいまだに火傷をしたようにヒリヒリと痛むもんで、楽しみにしとった昼食の時間になっても固形物は受け付けん。仕方がなしに、冷たいウイダーインゼリーを喉の奥へなんとか流し込むようにして、胃袋へ収めたんじゃ。

食後、少しお腹が落ち着いたところで、凝り固まった身体をほぐしたくなってな。昼の光が溢れる屋上へと、トボトボと階段を登っていったんじゃ。 重い扉を開けると、そこには懐かしい播州の心地ええ風が吹いておった。遮るもののない青空の下、設置された長椅子にどっこいしょと腰掛け、風に吹かれながら「やれやれ、これでひと段落じゃて」と、頭を空っぽにしてポーッと休憩しとったんじゃ。戦いを終えた戦士の、束の間の休息といったところじゃな。

ところが、人間ちゅうのは気が抜けとる時に限って、おかしなことが起きるもんやな。

ところが、人間ちゅうのは気が抜けとる時に限って、思いもよらんおかしなことが起きるもんやな(苦笑い)。 ワシが風に目を細めておると、どこからかワシと同い年くらいに見える、見知らぬ男性がツカツカと足音を響かせて近づいてきたんじゃ。その御仁、ワシの真ん前でピタリと足を止めると、開口一番、なんとも神妙な面持ちでこう声をかけてきおった。 「私はこれから、2回目の抗がん剤治療が始まるんですが……失礼ですが、あなたは今回が初めての方ですか?」

これには、さすがの自由爺も完全に虚をつかれてしもうた。

これには、さすがの自由爺も完全に虚をつかれてしもうた。 あまりにも唐突な質問に、頭の中の歯車が上手く噛み合わんでのう。「え? いや、その……」と、口をモゴモゴと金魚のように開け閉めさせることしかできやせん。 するとその御仁、ワシのそのうろたえた様子を見て、恐怖に怯えとる新米の患者だとでも思ったんじゃろう。がぜん先輩としての使命感に火がついたようでな。ワシの肩に手を置かんばかりの勢いで、畳み掛けるように言葉を続けてきおった。 「抗がん剤ちゅうのはね、本当にしんどいですよー。これから辛いことがたくさんありますが、とにかく気持ちを強く持たなければね! 負けたらあきませんよ!」 と、なんとも熱い、絵に描いたような「先輩風」のアドバイスを、大真面目にくださったんじゃ。昭和の熱血漢を思わせるその勢いに、ワシは圧倒されっぱなしじゃった。

そこでワシも、ようやくハッと気持ちを持ち直してな。このまま誤解されたままおるのもおかしな話じゃと思い、おそるおそる、しかし事実を丁寧にお返ししたんじゃ。 「いやいや……お気遣いありがとうございます。ですがワシ、抗がん剤治療はもう、しんどい3回目が無事に終了しとりましてな。おまけに、あの放射線治療にいたっては、今日ですべての予定を終えたところなんですよ。後は仕上げの4回目を打つだけなんじゃ」

そう告げた瞬間、今度は相手がハッと目を見開いた。

そう告げた瞬間、今度は相手がハッと目を見開いた。 さっきまでの熱血先輩の顔がみるみるうちに硬直していき、その視線はワシの顔から、頭のてっぺんへと釘付けになったんじゃ。 その御仁、ワシの頭を凝視しながら、「え……でも、髪の毛が全く抜けていませんよね」と、まるでUMA(未確認生物)か何か、あるいはツチノコでも見るかのような、底知れぬ不思議な生き物を見る目でポツリとつぶやきおった。

実はな、そう言われてワシ自身も初めて「ハッ」と気がついたんじゃよ。 治療が始まる前、あのお風呂の中で鏡を見つめながら、「次の治療が始まったら、ワシの髪の毛も一気に抜け落ちて、ツルツルになってしまうんやろな」と、ひとりで涙を流して覚悟を決めとったはずじゃった。 ところがどうじゃ。激しい3回目が終わったというのに、ワシの髪の毛は全く抜けてへん。それどころか、天邪鬼(あまのじゃく)なワシの性質に似たのか、入院した当初よりも、髪の毛が一段ともっさりと、ジャングルのように力強く生えてきとうやあらへんか。

改めて、昼下がりの屋上に集う周りの患者さんたちを、それとなく見渡してみたんじゃ。するとやはり、大なり小なり、皆さん抗がん剤の副作用で髪の毛が抜け落ち、帽子を被るなどして苦労されとるのがよくわかる。 その切ない風景の中で、同じジャージ姿でありながら、ワシの頭だけが不自然なほど「もっさり」としとる……。この時ばかりは、科学の常識を跳ね返すような、自分の身体に宿る根性じみた「生命力」ちゅうやつを、少しばかり肌で感じて畏怖してしもうたわい。ワシの身体は、化け物に対抗できるだけの頑丈な大木じゃったらしい。

その後、声をかけてくれた主とも少し話をしてみたんじゃが、

その後、声をかけてくれた主とも少し話をしてみたんじゃが、実はその彼、人知れず孤独で苦しい治療を黙々と続けておられることがわかったんじゃ。 きっと、これから過酷な2回目を迎えるにあたって、自分自身に発破をかける意味も含めて、誰かに声をかけたかったんやろな。 そうなると、さっきの「初めてですか?」ちゅう、ちょっと得意げだった冒頭の声かけが、なんだか本人のほうで猛烈に気恥ずかしくなってしもうたんやろなぁ。 「いやあ、これは一本取られましたな」と、頭を掻きながら話を終えると、自分の部屋へスーッとバツが悪そうに、しかしどこか軽やかな足取りで帰っていかれてな。なんだかその不器用な背中が、たまらなくおかしうて、愛おしい出会いじゃったよ。暗闇の病棟で、ふっと心が通い合った瞬間じゃった。

がんちゅう病気は本当に罪づくりなやつで、隣のベッドの人と病状も、薬の効き方も、副作用の出方もまるで違う。誰のことも参考にできん孤独な森じゃ。 だからこそ、こうしてたまにクスッと笑えるような、不思議な我が身の頑丈さに救われることもあるんじゃろう。 髪の毛がもっさり残っているくらい、これからの人生の闘いに比べたら、あるいは些細なことかもしれん。じゃが、今は素直に、この身体が示してくれた、根性ある生命力をありがたく信じることとするわ。この髪の毛は、ワシの身体が「負けへんぞ」と上げとる鬨(とき)の声なんじゃろうて。

ま、焦ってもしょうがない。

ま、焦ってもしょうがない。焦ったところで、生えるものは生えるし、抜けるものは抜ける。 残る最後の4回目の抗がん剤に向けて、明日も気負わず、ボチボチいきますか。 皆もな、人間ちゅうのは自分が思うとる以上に強い生き物じゃ。自分の体の中に眠っとる、まだ見ぬ小さな「底力」を信じてやってな。 今夜は誰かの温もりに守られた、ええ夢をみなされよ。では、おやすみなさい。

【ワシからのお願い(免責事項)】
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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