養生草紙 第四十六巻 無言の友が下した決断、わが人生の舵を握る覚悟(気持ち)

いやはや、参った。今日は本当にな、色々と深く考えさせられる一日じゃった。 治療の大きな山を越え、体調が少しずつ上を向いてきたからこそ、かえって周りの景色や、ここに生きる人たちの人生が、より鮮明に心に映り込んでくるのかもしれんのう。 夕暮れ時、個室の窓の外をぼんやりと眺めれば、いつの間にかすっかり夏めいた力強い雲と、どこか熱を帯びた空気が漂っとるのが見える。季節は着実に前へと進んどるというのに、ワシの心には、それとは対照的な、少しばかり冷たくて静かな風がヒュウと吹き抜けとうよ。

実を言うとな、ワシが入院した最初の日から、

実を言うとな、ワシが入院した最初の日から、ずーっと目に見えん糸で結ばれているような、不思議な縁を感じる男がおったんじゃ。 病院の受付で、あるいは最初の血液検査の待ち合いで、いつもすぐ近くの長椅子に腰掛けておってな。同じようなタイミングで検査を受け、同じようなスケジュールで治療を進めてきた男じゃった。 年齢はワシより10歳ほど若い、まだこれからの男じゃったが、入院した当初からどうも全体の線の細さが目立ってな。どこか危うげな雰囲気を纏うとったんじゃ。 抗がん剤の副作用の出方は人それぞれ罪づくりなもんじゃと前に言うたが、まさにその通りでな。ワシが人一倍の頑固な生命力で「もっさり」と頭髪を残しとう一方で、彼はあまりにも薬の毒気が強かったんやろ、1回目の抗がん剤から2回目に行く頃には、すっかり髪の毛が抜け落ちてしもうとった。

こういう白い壁に囲まれた病院独特の空気、そして互いに重い病を抱えとるちゅう繊細な間柄やから、直接言葉を交わして「どこの出身ですか」とか「お仕事は何ですか」なんていう世間話をしたことは、ただの一度もあらへん。 それでもな、広い館内を検査のためにあっちへ行きこっちへ行きと右往左往しとる時に、廊下の曲がり角やエレベーターの前ですれ違えば、自然と目と目が合いよる。 言葉はなくとも、お互いに「おぅ、お前も生きてたか」「なんとか耐えような」と、無言のまま首を小さく縦に振って会釈を交わし合う。ただそれだけのことじゃったが、暗闇の深い森をたった一人で歩くワシにとって、彼の存在はどれほど心強い、大切な心の戦友(とも)じゃったか分からん。

それが、2回目の治療が終わった後のことじゃった。

それが、2回目の治療が終わった後のことじゃった。 ある日の夕刻、何気なく部屋の外へ一歩出た時じゃ。廊下の少し先にある彼の病室から、面会に来ておられたご家族と話しとう、なんとも切ない、痛切な声が、図らずもワシの耳に届いてしもうたんじゃよ。 「薬が、もう、辛くてたまらんのや。お願いやから、もう治療を辞めさせてくれ……」 盗み聞きするつもりは毛頭なかったが、その声の悲痛さに足が止まってしもうた。 扉の隙間から見えた彼は、すっかり小さくなってしまった自分の頭を、細くなった指先で何度も何度もさすりながら、涙目で、すがるように必死にご家族に訴えとった。 これまでずっと、無言の会釈でワシにみせてくれていたあの気高い闘士の姿はどこへやら、そこにおったのは、限界まで追い詰められたひとりの人間じゃった。あの、喉の奥から絞り出すような絶望と拒絶の響きは、今もワシの耳の奥にこびりついて離れんのじゃ。

そして今日、お茶を持ってきてくれたいつもの看護師さんから、何気ない会話の中で、彼が3回目の抗がん剤を受けずに、そのまま荷物をまとめて病院を去っていったと聞いたんじゃ。

今となっては、彼の体の状態が本当はどうやったんか、

今となっては、彼の体の状態が本当はどうやったんか、これからどうなるんか、部外者のワシには分かりようもない。 西洋医学の常識から見れば、「途中で治療を放棄するなんて」と首を振る御仁もおるかもしれん。けれどな、あの地獄のような、五臓六腑をかきむしられるような副作用と、夜な夜なベッドの上でたった一人で向き合い、血の涙を流しながら歯を食いしばって頑張ってきた彼じゃ。生半可な気持ちで白旗を揚げたわけやあらへん。 何日も、何十時間も、それこそ自分の命の蝋燭を見つめながら、悩みに悩んで、苦しみ抜いた末に出した結論なんじゃ。 だからこそワシは、その「戦線離脱」という選択が、彼本人にとっても、そして彼を支え続けてきたご家族にとっても、後悔のない「ベストな選択」であったことを、播州の夏空に向かって、心から、本当に心から祈っとるよ。よく頑張ったな、お疲れさんと、胸の中で声をかけずにはおれん。

がんに立ち向かうために刀を抜き続けるも、

がんに立ち向かうために刀を抜き続けるも、そこから一歩身を引いて、自分らしい時間を過ごすために刀を収めるも、正解なんてものはどこにもない。 結局のところ、自分の人生という名の荒波のなかで、船の舵を右に切るか左に切るか、それを握れるんは、世界中で自分一人だけなんじゃ。他人の意見や医者の言葉、世間の常識に流されるんやない。「自分の道は自分が決める」。 夕闇が迫り、静まり返った贅沢な特別室のソファーに深く腰掛けながらな、ワシもその重たい覚悟だけは、残された日々がどうあろうとも、しっかりとこの胸に決めておこうと深く誓った、そんな一日じゃった。

ま、ワシはワシの選んだ道を、

ま、ワシはワシの選んだ道を、明日も焦らず、ボチボチと一歩ずつ歩んでいくだけよ。髪の毛がもっさり生えとうこの頑丈な身体に感謝しながらな、目の前の敵と最後まで付き合っていくつもりじゃ。 皆もな、長い人生、大きな選択を迫られる時がいつか来る。そんな時は、誰のためやない、世間体のためやない、自分の心に一番素直な、一番納得のいく選択を大切にして生きなはれや。自分の人生の主人公は、あんた自身なんじゃから。 今夜はみんなが、自分の心に嘘のない、穏やかな温もりに守られたええ夢をみなされよ。では、おやすみなさい。

【ワシからのお願い(免責事項)】
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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