養生草紙 第四十四巻 背中に刻まれた勲章、光の矢との戦い閉幕(放射線治療の最終回)
いやはや、参った。
いやはや、参った。ついに、この日がやってきたのう。 カレンダーに丸をつけ、指折り数えて待っていた運命の日が、とうとう幕を開けたんじゃ。 あの胃袋をひっくり返されるようだった凄まじい船酔いの嵐も、今となっては遠い過去のものになりよった。大嵐が過ぎ去った後の凪(なぎ)のような静けさの中で、長かった放射線治療も、今日がいよいよ最後の照射を迎える。 この日をどれほど待ちわび、どれほど心焦がしてきたことか。思い返せば胸の奥から熱いものが込み上げてきて、言葉に尽くせんほど感慨深いものがあるわい。
いつものように静まり返った病室で、治療へ向かうための支度を始める。 ふと胸の閊(つか)えを晴らすように息を吐き、洗面所の鏡の前へ立ったんじゃ。少しばかり窮屈な姿勢をしながら、自分の背中をそっと覗き込んでみた。 そこに映っていたのは、度重なる放射線の猛威にじっと耐え抜いてきた、ワシの皮膚の姿じゃった。かつての白い肌の面影はなく、全体が赤黒く変色し、まるで長年使い込まれた革製品のように鈍くてかっておったんじゃ。 「ほう、これはまるで、がんという目に見えん化け物との激しい死闘を物語る『勲章』のようでもあるのう」 鏡の中の自分に向かって、少しばかり男の強がりを言ってみるんじゃが……やはり、現実はそう甘うはない。格好をつけたところで、痛いもんは痛い。皮膚の突っ張り感と、内側からジリジリと炙られるような熱は、紛れもない現実としてそこに居座っとるんじゃ。
看護師さんからもらった軟膏を指先でジワジワと塗り拡げながら、
看護師さんからもらった軟膏を指先でジワジワと塗り拡げながら、ひんやりとした薬の感触にホッと一息つき、ふと考えたんじゃ。 放射線ちゅうのは、目に見えん「光の矢」のようなものなんやろなぁ、と。 太古の昔、戦場を飛び交った矢のように、無数の光の筋がワシの身体をめがけて真っ直ぐに突き刺さっていく。もしも神様が天の上から、今のワシの背中を覗き見ることがあったなら、それこそ何十本、何百本もの目に見えん光の矢が、ハリネズミみたいにびっしりと突き刺さっとる奇妙な姿に見えるんやないか。 ベッドの上で、そんな自分の健気な姿を少し想像してしもうたらな、なんだか胸の奥が温かくなってのう。この大嵐のような過酷な日々に文句も言わず、ようここまでじっと耐えてくれた我が身が、実に愛おしゅう、誇らしくなってきてな。不器用な自分の身体に「よう頑張ったな」と声をかけてやりたくなったわい。
時間が来ると、静かな廊下を渡っていつもの治療室へと向かう。
重い扉を開けて治療室に入り、ひんやりとしたベッドに横たわると、いつものように両手を頭の上へと上げて体を固定される。 あの名画『ムンクの叫び』みたいな、なんとも不格好で滑稽な照射ポーズをとるのも、今日が正真正銘、最後じゃ。 そう思った瞬間、いつもは無機質で、冷たくて恐ろしい要塞のように見えとったあの大きな照射機械に対してすら、妙な親近感が湧いてくるから不思議なもんじゃな。 「おい、鉄の相棒よ。今までワシの身体を救うために、毎日毎日、その光の矢を放ってくれてありがとうな」と、心の中でそっと語りかけ、心からの感謝を捧げたくなったわい。機械の駆動音が、心なしかお疲れさんと言っているように聞こえたものじゃ。
目に見えん矢との長きにわたる戦いも、これでひとまず幕引き、終幕じゃ。 あの地獄のようだった船酔いがいつの間にか綺麗に終わったように、この背中のヒリヒリとした痛みも、きっと日に日に薄らいで、懐かしい播州の夜風が癒やしてくれるじゃろう。 がんは確かに手強かった。暗闇から何度も鎌首を持ち上げてワシを脅してきた。じゃが、ワシの身体はそれ以上に頑丈で、もっとしぶとく、泥臭く強かったということよ。人間の身体の底力ちゅうやつを、ワシ自身が一番信じてやれた一日じゃった。
ま、焦っても皮膚がすぐに元通りになるわけやなし、
ま、焦っても皮膚がすぐに元通りになるわけやなし、時計の針を急がせることはできんからのう。 今日は大きな戦いを立派に終えた自分を、うんとうんと褒めてやって、借りてきた猫のようにおとなしくベッドで休むとしますわ。 大好きな相棒のiPhoneでも眺めながら、今夜は窓の外から吹き込む、心地ええ夜風を肌に感じて眠りたいのう。 皆もな、生きていれば色んな風が吹くが、今日一日をしっかりと生き抜いた自分を、どうか優しく労ってやりなはれや。焦らんと、ボチボチ。今夜は誰もが優しい温もりに守られた、ええ夢をみなされよ。では、おやすみなさい。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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