養生草紙 第三十七巻 爺の頼れる応援団、手のひらの文明開化(iPhone購入)
夏を思わせるギラギラとした日差しがジリジリと容赦なく照りつける今日この頃、皆はいかがお過ごしか信じのう。 アスファルトからは陽炎が立ち上り、まだ6月だというのに季節はすっかり衣替えを急いでおる。ありがたいことに病院から2回目の帰宅許可が出て、我が家でのんびりと畳の匂いに癒やされとるワシじゃが、実は今回の帰宅には、何が何でも成し遂げねばならん、どうしても外せん「大仕事」があったんじゃ。
それはな、いま世間で大層話題になっとる「iPhone」ちゅう、実になじみ深い響きでありながら、どこかハイカラな匂いのする小さな機械を手に入れることじゃった。
聞けばこれ一台あれば、これまでの折りたたみ式の携帯電話とはワケが違い、普通の電話はもちろんのこと、海の向こうや離れた場所にいる孫の顔をハッキリと映し出すテレビ電話もできる。それだけやない、ワシが大好きな大滝詠一やナイアガラ・サウンドといった80年代の瑞々しい音楽をいつでも好きな時に再生したり、日常のひとコマを鮮明な動画に撮ったり、世界中のインターネットの情報を瞬時に調べたり……果ては日々のスケジュールや覚書、メモ管理まで、すべてをこの小さな体に詰め込んで完結できるらしい。おまけに、もし手が思うように動かんようになっても、「声」で話しかけるだけで操作ができるちゅうから、昭和の人間からすれば天地がひっくり返るほどの驚きやんか。
なぜ、このワシが急にそんな最先端の道具を欲したかといえば、それにはちと、人には見せられん格好悪い背景があったんじゃ。
実は昨晩のこと、久しぶりに我が家のお風呂の湯船に浸かっとった時、湯気の中でふと将来への不安が頭をもたげてな。「もしこのまま病気が進んで、体が思うように動かんようになったら、ワシは時代の流れからも家族からも置いてけぼりにされて、一体どうなってしまうんやろ」と、いささか心細い涙をポロポロと流してしもうたんじゃ。
病気がもたらす先の見えない恐怖に、ワシの弱り切った心はすっかり折れかかっとった。じゃが、泣くだけ泣いてお湯から上がった時、ふと閃いたんじゃな。もしも将来、ベッドの上から一歩も動けんような非常事態が訪れたとしても、こいつが枕元に新しい技術(テクノロジー)としてそっと寄り添ってくれたら、どれほど心強い味方になってくれるだろうか、と。これは単なる贅沢品やない、ワシの明日を照らす命綱になるかもしれんと思ったんじゃ。
そうと決まれば、グズグズしとれん。善は急げ、行動じゃ。 さっそく近所の馴染みの電話屋さんに出向いたんじゃが、まあ、店に入ってからの手続きのめんどくさいこと、めんどくさいこと!
「プランがどうの、容量がどうの」と、若い店員さんからカタカナの横文字の説明を右の耳から左の耳へとあれこれ受け、何枚もの書類に何度も何度も名前や住所を書かされたわい。老眼鏡をかけ直してはサインをする作業に早くも一苦労じゃ。しかし、そんな格闘の末、ようやくワシの手のひらに収まったのは、ボタンが一つもない、実につるんとした黒いガラスの板じゃった。これが現代の文明開化の象徴か、とまじまじと見つめてしもうたよ。
宝物のように大切に我が家へ持ち帰って、さあ、待ちに待った操作の勉強スタートじゃ。 最初は「ワシのような頭の固い古い人間に、こんな最先端の機械に入り込める隙があるんかいな」と、まるで未知の生物を前にしたように身構えとったんじゃ。
ところが、いざ触ってみると驚いた。さすがは世界中で老若男女に愛されとうスマホというものじゃな、ものすごく直感的に、まるで指先が次の動きを知っているかのように動かせるんじゃ。取扱説明書なんて分厚い本をめくらんでも、画面の絵をちょいと触るだけでスイスイとページがめくれ、動きよる。
それに、万が一使い方が分からんようになって迷子になっても、その場でネットを使って「iPhone 使い方」と調べれば、懇切丁寧に答えを教えてくれる。抗がん剤の副作用のせいか、最近は指先が少しピリピリと痺れるようになっておるワシの手じゃが、この賢くて優しい相棒は、思った以上に実になじんでくれたわい。お目当ての音楽も、指先ひとつで部屋いっぱいに響かせることができた。
これで、次の3回目の入院に向けて、ワシの枕元にはなんとも頼もしい、ハイテクな「応援団」が結成されたわけじゃ。 ベッドの上で一人きりの夜が来ても、これを開けばいつでも外の世界と、大好きなものと繋がっていられる。そう思った瞬間、それまで胸の奥にドカッと閊(つか)えとった重苦しい塊がスッと溶けて消えていくようで、本当にホッと胸を撫で下ろしたところじゃ。
病気との過酷な闘いはこれからもまだまだ続くし、次に何が起きるか分からん怖さは常に背中に張り付いとる。けれど、この新しい道具を味方につけたことで、暗闇の中に小さな灯台を見つけたような、ちょっとだけ前を向いて歩き出せる元気が湧いてきた気がしとうよ。
ま、焦ってもしょうがない。 病気とも、この新しい機械とも、一歩一歩ボチボチと、仲良く付き合いながら進んでいきますか。
今夜はさっそく、この相棒で枕元に小さな小さな音楽を流しながら眠ることにしよう。 皆も、生きておれば心細くて涙がこぼれそうな夜もあるやろ。そんな時は一人で抱え込まずに、大切な誰かに、あるいはこうした現代の便利な道具に、そっと甘えて頼ってみなされよ。きっと、心が少し軽くなるはずじゃ。
それじゃあ、今夜はこれにて。ええ夢を。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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