養生草紙 第三十八巻 特別室のおもてなしと、折り返しの赤信号(3回目の入院)
いやはや、参った。 いよいよ3回目の入院じゃ。あのジリジリとした夏の盛りの我が家を後にして、再びあの白く無機質な病院の自動ドアをくぐることになった。独特の消毒液の匂いが鼻をくすぐり、一気に現実へと引き戻される。重い足取りで受付を済ませ、病棟へと向かうと、顔なじみになった看護師さんたちがいつものように「自由爺さん、お帰りなさい!」と、満面の笑みと温かい言葉で迎え入れてくれたんじゃ。その一言だけで、強張っていた肩の力が少し抜けるのを感じとった。
ところがじゃ、そこでまさかの大サプライズが発生したんじゃ。
看護師さんに案内されるまま廊下を進んでいくと、いつもお世話になっとる大部屋を通り過ぎ、どんどん奥の方へ連れていかれる。まさか、と思ううちに案内されたのは、なんと大部屋ではなく、広々とした「特別室」じゃった。
おそるおそるスライド式の重厚なドアを開けて部屋に入ってみれば、天井が高く、窓からは遮るものがない景色が広がっとる。個室というだけでも涙が出るほど有り難いのに、驚いたことに室内には専用のバス、ピカピカのトイレ、さらには革張りの立派な応接セットまでついとうやあらへんか。まるで昭和の映画に出てくる社長室か、高級ホテルのスイートルームに迷い込んだかのような錯覚に陥る。
実はな、最初の入院当初から、周囲に気兼ねのいらん個室を希望してはおったんじゃ。しかしベッドの空き状況もあり、2回目の入院までは4人部屋の一般の病室で、カーテン一枚の仕切りに囲まれながらじっと息を潜めて耐えとったんじゃ。周りの生活音やいびきに気を遣い、夜中に何度も目が覚める日々は、やはり心身にこたえた。
ここへきて、食道炎やら手の痺れやら「敵」が随分と増えて、目に見えて満身創痍になってきたワシの体を、病院側が深く案じてくれたんやろなぁ。少しでもストレスの少ない環境で治療に専念できるようにと、裏で色々と手配してくれたに違いない。お医者さんや看護師さんたちの無言の優しさが、胸にじわっと染み渡る。
部屋の主となったワシが、ふかふかのソファーにどっかりと腰を下ろした瞬間、人間というのは実に現金なもんじゃな。「よし、これだけの城を用意してもろたんや。3回目もいっちょ、あの憎きがんと男らしく戦うたるか!」と、腹の底からむくむくと勇気が湧いてきたわい。さっきまでの憂鬱な気分はどこへやら、我ながら実に単純でおめでたい男じゃて。
特別室の居心地に浸るのも束の間、その日は明日から始まる本格的な戦いを前に、次々と検査のスケジュールが入ってきた。 お馴染みの血液検査で何本も血を抜かれ、レントゲン室でパシャリと胸を撮られ、さらにはあの、狭いトンネルのような機械に入ってガッタンゴットンと耳障りな大音が響くMRI検査なんかを受け、ヘトヘトになって部屋に戻った。
その後、いよいよ主治医の先生による問診の時間じゃ。先生は手元のパソコンの画面をじっと見つめながら、なんとも嬉しい報せを教えてくれたんじゃ。
「自由爺さん、良いデータが出ていますよ」
見せられた血液検査の結果、がんの勢いや暴れ具合を示す「腫瘍マーカー」の数値が、前回に比べてグッと低下しとる。おまけにさっき撮影したばかりのレントゲンやMRIの写真を並べて見ても、素人目には分かりづらいが、がんの塊の大きさが明らかに少し小さくなっとるそうじゃ。これを聞いた時は、さすがに張り詰めていた心の糸がふっと緩み、心の底からホッと胸を撫で下ろしただのう。
当初、病院から告げられたワシの標準治療プランは、抗がん剤を合計4回、そして放射線治療を30回も受けるという、気の遠くなるような長旅じゃった。それが今回の入院で抗がん剤は3回目、放射線も着実に回数を重ねておる。つまり、これでちょうど全体の半分、あの険しい山の折り返し地点までようやく進んだという計算になる。これまでの苦しい日々は無駄やなかったんやと、報われた気がしたわい。
数字のうえ、データのうえでは、確かにワシらの「勝ち戦(いくさ)」じゃ。
……けれどな、現実はそう簡単に万歳三唱、万々歳とはいかんのが辛いところよ。 機械の示す数字は良くても、ワシの生身の体の方は、相変わらず満身創痍の不調を丸ごと抱え込んどるんじゃ。
口に何を入れても、まるで砂を噛んでいるようで全く味がせん味覚障害。おまけに指先は常に炭酸水が湧き出ているようにザワザワと痺れ、パソコンのキーボードを叩くのも一苦労じゃ。放射線の影響か、背中には日焼けのような赤い皮膚炎が広がって服が擦れるたびにピリピリと痛み、喉を開ければ、唾をゴクリと飲むのすらツラい食道炎が居座っとる。極めつけは、例の「6番目の敵」――瞼がまるで鉛を仕込まれたように重くなり、起きていようとしても強制的に閉じてしまう奇妙な異変じゃ。
どれだけ「がんは小さくなっとる」と頭で理解できても、明日からまた、あの強い薬が体に入ってくる3回目の抗がん剤治療を目の前にして、やっぱり心のどこかで「またあの地獄のような倦怠感が来るんか……」と気が重うなってしまうんが、一人の人間としての本音じゃった。
ま、勝負はまだ半分残っとるし、ここで一喜一憂して焦ってもしょうがない。 幸いなことに、ワシにはこの快適な特別室という素晴らしい「陣地」がある。そして、何より心強い味方になってくれたお医者さんや、いつも笑顔で励ましてくれる看護師さんたちが周囲を固めてくれとる。この最強の応援団と一緒に、目の前にある険しい山を、一歩ずつボチボチと越えていくとしますわ。
今夜は、我が家にもないこの上質な応接ソファーの座り心地をもう少しだけ堪能してから、早めに温かい布団に入ることにしようかの。
皆も、人生の中で色んな戦いや悩みがあると思うが、それぞれの場所で、無理せん程度にボチボチとな。頑張りすぎたらあかんで。 それじゃあ、今夜はこれにて。ええ夢をみなされよ。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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