養生草紙 第四十九話 ついに、この日がやってきた。感謝

いやはや、参った。ついに、この日がやってきたんだのう。 ベッドの上で何度となくカレンダーを睨み、指折り数えて待ち焦がれていた瞬間が、いま目の前に現実の景色として広がっとる。 今回の入院生活は、思い返しても今までになく厳しい試練の連続じゃった。暗闇のトイレで倒れ込んだり、終わりの見えん船酔いにのたうち回ったりとのう。じゃが、「終わり良ければすべて良し」ちゅうのは先人の遺した至言じゃな。最後の最後にこうして最高の吉報を抱えて帰れるんじゃから、すべての苦労が嘘のように吹き飛んでいくわい。

いつもなら朝の七時を過ぎた頃から、容赦なく押し寄せてくる血液検査やらレントゲン検査やらのハシゴも、今日ばかりは一切なし。パタパタと廊下を走るナースシューズの音を遠くに聴きながら、実にのんびりとした、贅沢な朝を迎えさせてもらったわい。 青いお盆に載せられた病院食も、今日が最後。長らく喉の痛みや不快感に邪魔されてきたが、久方ぶりに何の手加減も気兼ねもなく、朝食を最後の一口まで美味しくいただくことができた。 食後のお茶をずずっとすすり、あとは4ヶ月間お世話になったこの個室の荷物をまとめ、退院手続きを済ませて、主治医の先生との最後の問診を待つばかりじゃった。

荷物をまとめて部屋で待っとると、

愛着の湧いた特別室で、カバンに荷物を詰め込んで待っとると、廊下やナースセンターのあたりで出会う看護師さんたちが、かわるがわるワシの部屋に顔を出しては声をかけてくれてな。 「自由爺さん、4回目の抗がん剤が中止になったお話、さっき聞きましたよ! 本当に良かったですねぇ。おめでとうございます!」 みんなが、まるで自分の親兄弟のことのように、満面の笑みを浮かべて心から喜んでくれるんじゃ。 中には「自由爺さん、もうここに戻ってきたらダメですよ! 二度と顔を見せないでね!」なんて、昭和の小粋な引き留め文句よろしく、冗談交じりに力強いハッパをかけてくれる馴染みの姉ちゃんもおってな。 引き締まったナースセンターの空気の中で、みんなの温かい声が響き渡る。

思い返せば、薬の毒気に当てられて吐き気で半泣きになっとる時も、手足のジワジワとした痺れや喉の灼熱のような痛みに一人ベッドでのたうち回っとる時も、夜中や夜明けに足音を忍ばせ、小さな懐中電灯の光で静かに見守ってくれたのは彼女たちじゃった。藁をも掴む思いで押したナースコールの向こうで、ワシの我が儘な訴えを優しく受け止め、裏メニューの明石焼きを手配してくれたのも彼女たちじゃ。 彼女たちの白い制服の後ろ姿を見つめているうちに、もう感謝の念で胸がいっぱいになってな。男が簡単に涙を流すもんやないと思いつつも、不覚にもまた目頭が熱うなってしもうたわ。

そうこうしとるうちに最後の問診が始まり、

そうこうしとるうちに最後の問診の時間がやってきて、診察室で主治医の先生からこれからの生活の見通しについて、じっくりとお話を伺った。 「これからは、ひと月ごとに一度、定期的に病院へ来て血液検査や画像検査を受けてもらいながら、奴が大人しくしているか様子を診ていくことになります」とのことじゃ。 まずは当面のレールが敷かれ、ひと安心といったところじゃな。

じゃが、話がこれで終わらんのが、この名医のニクいところよ。先生はワシの顔をじっと正面から見つめてな。 「自由爺さん、これからはくれぐれも不摂生はしないようにしてくださいよ。特に血糖値のコントロールは非常に重要ですから、退院してからも引き続き、地元の信頼できるお医者さんに通って、しっかり診てもらってくださいね」と、なんともワシの痛いところ、一番の弱点をチクリと突いてきおったんじゃ。 さすがの自由爺もこれには完全にタジタジでな。我が家の冷蔵庫にある美味いものの顔が頭をよぎり、「へい、先生の仰る通り、これからはボチボチと体に優しい養生に励みますわ」と、バツが悪そうに小さく白髪頭を掻くしかなかったわい。

最後の問診が終わり、すべての事務手続きを終えて、お世話になったナースセンターの皆々に帽子を脱いで心からのお礼を伝えた。 4ヶ月分の生活が詰まった、ずっしりと重いボストンバッグを両手に抱え、エレベーターを降りて1階の広々としたロビーで最後の精算を待つ。 あのベッドの上で、時計の針が錆びついて止まってしまったかのように長く、暗かった闘病の日々が、いま、この手のひらに載せられた領収書一枚に綺麗に収まったかと思うと、なんとも言葉に尽くせん不思議な心地がするのう。

自動ドアが開き、正門から一歩外へ踏み出したその瞬間――。

自動ドアが静かに開き、病院の正門から一歩外へ踏み出したその瞬間じゃ。 ジリジリと肌を焦がすような、生命力に満ち溢れた強烈な夏の太陽の光が、ワシの白髪頭に容赦なく、しかし祝福するように降り注いできた。 まぶしさに目を細めながら見上げる空は、どこまでも高く、どこまでも深い青色に染まっておる。コンクリートから立ち上る空気の匂いも、肌をなでる風のじっとりとした熱さも、すっかり夏本番のそれじゃった。

4ヶ月前、まだ木枯らしが吹く季節に、寒さに身を縮こまらせ、震えながらこの病院の門をくぐった時には、まさかこんなギラギラした黄金色の夏の光の中に、五体満足で帰ってこられるなんて、夢にも想像してへんかったなぁ。 あぁ、ワシは今、間違いなく生きとる。我が身の奥底に眠っていた頑丈な生命力が、このジリジリとした夏の暑さの中で、確かにドコドコと脈打っとるのを全身の肌で感じたわい。

がんは確かに手強い敵じゃし、これからもひと月ごとの検査のたびに、結果が出るまでビクビクと怯える日々は続く。病気との付き合いちゅうやつは、退院の門をくぐったからといって、はい終わり、というわけにはいかんのじゃ。 じゃが、ワシにはもう何も怖れるものはない。手のひらの上でいつでも声に応えてくれる、心強い相棒のiPhoneもおるし、何より、あの住み慣れた我が家で待っとる、温かい当たり前の生活があるんじゃから。

ま、焦ってもしょうがない。

ま、焦ってもしょうがない。これから先も長い付き合いになるんじゃからのう。 明日からは、やっぱり一番落ち着く住み慣れた我が家のお布団で、主治医の先生の言いつけをしっかり守って不摂生に気をつけながら、またワシらしくボチボチと、一歩ずつ生きていきますわ。 皆もな、これから本格的な夏がやってくる。この厳しい夏の暑さに負けんよう、水分をしっかり摂って、身体に気をつけて養生しなはれや。 今夜はみんなが、誰かの温もりに守られた、ええ夢をみなされよ。では、おやすみなさい。わが家へ、ただいまじゃ。

【ワシからのお願い(免責事項)】
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
万が一、掲載した情報でトラブルが起きても、当サイトでは責任を負いかねるんじゃ。すまんねぇ。
詳しいお約束事は、こちらの「プライバシーポリシー・免責事項」にまとめてあるで、一読しておくれやす。