太公望の戯れ 第十話 戦場のコーヒーと大堰の珍客。50センチのナマズに魂を吸い取られた日

[responsivevoice_button voice="Japanese Male" buttontext="音声で聴く"]

風の便り

朝もやの残る川面に、しんとした冷たい風が吹き抜ける。まだ街が眠りの中に没している薄暗い時間帯、愛車のシートに深く腰掛け、エンジンをかけたままフロントガラスの向こうに広がる水面を眺めておった。ダッシュボードの時計は早朝5時を回ったところじゃ。

車の中で、戦場へ向かう侍の心持ちで缶コーヒーのプルタブを弾く。プシュッという小気味よい音とともに、香ばしい湯気が立ち上った。熱い液体をぐっと喉へ流し込む。黒い苦みが身体の隅々にまでじわじわと染み渡り、眠気の残る脳みそがシャキッと目覚めていくのが分かったわい。腹の底からじわじわと湧き上がる興奮と、心地よい緊張感。

「今日こそは、あの水底の猛者を釣り上げてやるぞ」

そう呟く声が、狭い車内に小さく響いた。今日という日を迎えるために、先週末から釣り雑誌をめくり、近所の釣具屋へ足繁く通って下調べも万全に整えてきたんじゃ。仕掛けの結び目を何度も確認し、イメージトレーニングはバッチリ。準備段階から胸の鳴りが止まらなんだわい。まるで遠足前夜の小学生に戻ったかのような、甘酸っぱくもソワソワとした高揚感が全身を駆け巡っておった。

文明の利器との遭遇

この日のために、ワシは新しい武器を手に入れておったんじゃ。釣具屋に「これさえあれば百力船じゃ」と乗せられて購入した、伸び縮みする魔法の柄がついたすくい網(タモ)。そして、まるで小さな銀色の小魚が水中で舞い踊るかのように、金属の羽がクルクルとまぶしく光を反射して輝く妙な仕掛け(スピナーベイト)。

「これで完璧じゃ。鬼に金棒、ワシにスピナーベイトじゃな」

事前に下見をしておいた大堰のポイントへ、カサカサと足音を立てながら踏み込んでいく。あそこへ仕掛けを投げ込み、魚がかかったらあっちの浅瀬へ誘導して、あの魔法の網でサッとすくう……。頭の中で何度も完璧な絵図を描きながら、忍び足で水際へ近づいていったんじゃ。昭和の活劇映画の主人公にでもなった気分で、思わずニヤリと口元が緩む。

ところが現場に着いて川底を覗き込むと、何やら細長い「ニョロニョロ」した怪しい生き物が群れをなして蠢いとるやんか。川底の砂利を巻き上げながら動き回るその影を見て、「うおっ」と高鳴る鼓動を必死に押さえつけた。冷や汗が背中をスッと伝う。震える手で道糸と仕掛けを結び、息を整えて、えいやと川下へ向かって大きく竿を振ってみた。

昔の道具・知恵との比較

するとどうじゃ! 投げた瞬間に、手元にズンと重みが伝わったかと思うと、竿がバシッと大きくしなった!

「えーーーーッ!? いきなりかいな!」

心の準備もクソもない。糸を巻く機械(リール)がキーキーと金属の悲鳴を上げ、竿が綺麗な円を描いてぐにゃりと曲がる。昔、裏山の池で近所のガキ大将と一緒に、自分で削った竹竿に手ぐすを結び、フナや小魚を釣って戯れていた頃の穏やかな時間とはワケが違う。相手の力が凄まじすぎて、買ったばかりの仕掛けの糸の太さが一気に不安になってきたわい。現代の文明の利器をもってしても、この引っぱりの強さは異常じゃ。

おそるおそる川下を覗き込むと、まあデカい。川底の暗がりで、黒い巨大な影が狂ったように右へ左へ暴れとる。まるで川の主が目覚めたかのようじゃ。上流へ強引に引っ張り上げるのは糸が切れそうで恐ろしいさかい、無理をせず下流へ流しながら、だましだまし50メートルほど一緒に湿った川岸を歩いたんじゃ。足元の滑る石にヒヤヒヤしながら、必死の思いで魚と並走する姿は、第三者から見たら滑稽極まりなかったはずじゃ。

爺のボヤキ

格闘すること15分。ハァハァと息は切れ、両腕は鉛のようにパンパン。汗が目に入って沁みる。ようやく足元まで寄せて、脇に抱えていた魔法の網をシャキッと伸ばし、必死のパッチで何とかすくい上げた。

上がってきたのは、なんと50センチはあろうかという貫禄たっぷりの大ナマズじゃ! 平たい頭に立派なヒゲをたくわえ、ぬめりとした黒光りする体躯。ナマズも口をパクパクさせて苦しそうに呼吸しておるが、ワシの心臓も口から飛び出そうくらいバクバク言っとる。「これ、ワシの心臓は大丈夫なんかいな。血圧が上がってそのまま倒れてまうわ」と、一人で青菜に塩状態よ。腰が引けて笑うしかない。

何とか傷つけんように針を外し、川の浅瀬へ帰してやった(キャッチアンドリリースというハイカラなやつじゃな)。ナマズが滑らかな動きで悠々と深みへ消えた後、ワシはその場にへたり込んだまま、しばらく立ち上がることができんかったわい。膝がガクガクと震えておる。頭の中で描いたシミュレーション通りにいったのは網の長さくらいで、あとは完全に魚のペースに振り回されっぱなしじゃった。

自由爺の独白

新しく買い揃えた自慢の道具も、事前に仕入れたハイテクな情報も、大自然のド迫力の前にはあっという間に吹き飛んでしまう。知識や道具をどれだけ固めても、相手は生きた自然なんじゃから当然じゃな。じゃが、この「予定通りにいかんハプニング」と、手のひらに残る「心臓が破裂しそうな手触り」こそが、時代が変わっても変わらない釣りの醍醐味なんじゃろうな。

帰りの車の中で飲む、すっかり冷めきった缶コーヒーも、なぜだかどこか甘く誇らしい味がしたわい。一仕事終えた男の満足感というやつじゃろうか。

皆さんも、思わぬ大物に魂を抜かれそうになった経験はあるかのう?

【ワシからのお願い(免責事項)】
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
万が一、掲載した情報でトラブルが起きても、当サイトでは責任を負いかねるんじゃ。すまんねぇ。
詳しいお約束事は、こちらの「プライバシーポリシー・免責事項」にまとめてあるで、一読しておくれやす。