養生草紙 第八巻:情けは人のためならず、涙の辞職願 (素晴らしい上司と同僚たち 周りに感謝)
人生の崖っぷちに立たされた時、人の温かさがこれほどまでに身に染みるとは思わなんだ。
いやはや、人生の崖っぷちに立たされた時、人の温かさがこれほどまでに身に染みるとは思わなんだ。
医師から「余命二年」という無慈悲な宣告を受けた翌日のことじゃ。前夜は一晩中、冷たい闇の中で親父の面影を追いかけ、身内とベンチで涙を流し、一睡もできぬまま朝を迎えやした。いつものように昇るお日様が、どうしてこんなに恨めしいのか。いつもと同じ通勤電車の揺れに身を任せながらも、ワシの心は完全に浮世から切り離されておりやした。ネクタイを締め、カバンを握りしめる手のひらは、まるで自分のものじゃないように冷え切っている。重い足取りで会社の門をくぐり、いつものデスクに向かうものの、パソコンの画面に並ぶ数字や書類が、ひどく遠い世界の出来事のように思えてなりまんでした。
意を決して、ワシは上司の席へと歩みを進めやした。会議室の重い扉を閉め、二人きりになったところで、懐に隠し持っていた昨日までの現実――医師から告げられた事実を、すべて包み隠さずに打ち明けたのでございます。
「いつ帰ってこれるか分からん、いや、もう帰ってこれんかもしれん。これ以上、皆に迷惑をかけるくらいなら、いっそこのまま会社を辞めさせてほしい」とな。
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど震えておりやした。正直、四十八の働き盛り、これからバリバリと現場を引っ張っていかなきゃならん男が、自ら戦力外通告をするようなもんじゃ。長年、寝食を忘れて仕事に打ち込み、この会社こそが自分の存在証明だと信じて疑わなかった。その居場所を、病気という目に見えない怪物のせいで自ら手放さなきゃならん。その口惜しさと、残される仲間への申し訳なさで胸がいっぱいになり、ワシはただ畳み込まれた絨毯の床を見つめたまま、顔を上げることもできんかったのでございます。
打ち明け終えた会議室には、しんと静まり返った、一分ほど続く長い沈黙が流れやした。
窓の外を走る車の音だけが遠くで響いている。上司がどんな顔をしているのか、怖くて見ることができない。「そうか、仕方がねぇな」と、冷たく事務手続きの話をされる覚悟は、とうにできておりやした。組織ってなぁ、つまるところ歯車で動く機械のようなもんだ。欠けた部品はすぐに新しいものと取り替えられる、それが世間の常識であり、サラリーマンの宿命だと分かっていたからでございます。
ところが、その長い沈黙を破って、上司が掛けてくれた言葉は意外なもんじゃった。
「早まるな。治ることを信じて、席はそのまま置いておけ。あとのことは後で考えればええんや」
静かで、けれど腹の底にずっしりと響くような、優しい口調でそう諭された瞬間、あっしの胸の奥の堤防が、音を立てて決壊いたしやした。目蓋の裏から、堰を切ったように涙が溢れて止まらかんだ。男は涙を見せるな、播州の男が人前で泣くなんて格好の悪い話やが、あの時はもう、世間の体裁だの男のプライドだのといった生温かいものは、すべてどこかへ吹き飛んじまった。ただただ、冷え切った暗闇の中にぽっと一筋の灯火を掲げられたような、心の底からの感謝で胸がいっぱいになってしもうたんじゃ。
その後、数日おいて、これまで苦楽を共にしてきたチームの仲間にも、事の顛末を説明とお詫びをする場を設けやした。
皆、どんな顔をするだろう、病人を抱えるチームの重荷を嫌がるんじゃないかと、胃がキリキリと痛むような心地がしたが、それも全くの杞憂でござんした。仲間たちは皆、嫌な顔一つせず、それどころか涙を浮かべてワシの言葉に耳を傾け、暖かく受け入れてくれたんでさぁ。
「席は空けて待ってますから」「仕事のことは俺たちに任せて、治療に専念してください」
その一言ひとことが、どれほどワシの救いになったことか。自分が必死に守ってきた「居場所」が、まだそこにある。明日から社会から弾き出されるわけじゃない、自分を待ってくれる人がいる。そう思えただけで、あの病院の診察室で完全に凍りついていた身体の芯に、少しずつ、じわじわと温かい血が通うような心地がしたわい。
組織というもんは、利益を追い求め、仕事をするだけの無機質な場所やと思っとったが、決してそうやなかったんやな。
そこにいる人間たちの血の通った温もりこそが、組織の本当の姿なんだと、この歳になって初めて気づかされやした。ワシは一人で孤独に戦うとるんじゃない。背中を押してくれ、帰りを待ってくれとる仲間がこんなにもおる。そう思うたら、心の奥底からフツフツと、不思議な力が湧き上がってくるのを感じやした。ただ怯えて待つだけの「二年の審判」なら、そんなもの、仲間の想いと一緒に一歩も引かずに跳ね返してやろうじゃないかという、小さな、けれど確かな闘志の火が、冷え切った心に灯った気がするんじゃ。
一週間後の入院を前に、まさかこんなに力強いエールをもらえるとはのう。
病気という嵐は容赦なくワシを襲いやしたが、同時に、普段の生活では見えなくなっていた「人の優しさ」という宝物を、ワシの目の前に引きずり出してくれやした。ま、まだ始まってもいない先のことを案じてジタバタしてもしゃあない。今はただ、この職場の仲間からもらった温かさを一番の糧にして、前を向いて一歩ずつ進むしかない。
皆も、日々の忙しさに追われて見落としがちかもしれんが、自分の周りにおる人を大切にしなされよ。
当たり前のように隣にいる上司や、毎日顔を合わせる同僚。その誰かの何気ない一言、誰かの差し伸べてくれた優しさが、崖っぷちに立つ誰かの命の灯火を繋ぐこともあるんじゃから。人は一人じゃあ生きていけないってぇのは、綺麗事じゃなく本当のことでございますな。
さて、今夜はいただいた温もりと感謝を胸の内で静かに噛みしめて、明日に備えてゆっくり休むとしよう。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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