養生草紙 第十五巻:看板倒れの担当さん? 病院の七不思議  (主治医や看護師とのコミュニケーション)

いやはや、入院して一週間。

いやはや、入院して一週間。

「血糖値が高い」という分厚い壁のせいで、インスリンの単位が二、四、六と増えていくのを眺めながら、ただただ停滞の時を過ごした五日間。それからさらに二日が経ち、ようやくここの白一色の空気や、動かない時計の針、そしてあの味気ないブルーのプラスチック容器に盛られた薄味の食事にも、身体がボチボチと慣れてきたところでございます。

夕食後の気だるい時間が流れ、廊下の喧騒も少しずつ静まり返っていく頃、ワシはベッドの上に上体を起こし、ふと自分の枕元の壁に掛けられたネームプレートを眺めとって、妙なことに気がついたんじゃ。

そこには白地に黒々と、「担当看護師 ◯◯」と、立派な名前が書いとる。

そういえば初日の午前中、あの気ぜわしいバタバタの真っ最中に、「今日からあなたの担当になる◯◯です。よろしくお願いしますね」と、にこやかに挨拶に来てくれた若くて快活そうな看護師さんがおったわい。あの時は、これから始まる大戦(おおいくさ)を前に、白衣の天使が味方についてくれたような気がして、どこか心強く思ったもんでございました。

ところが、一週間経った今、その◯◯さんに一度も会うておらんのじゃ。

朝の検温に来るのも、昼のインスリンを打ちに来るのも、夜の消灯前に見回りに来るのも、みんな別の看護師さんばかり。ん?? なぜ?? プレートには確かにあの人の名が掲げられているというのに、肝心の張本人が一向に姿を現さん。まるで狐につままれたような、あるいは約束の場所に相手が来ない待ちぼうけの食い倒れのような、なんとも奇妙な違和感が胸の内にじわじわと広がりやした。

そこで、初日のあの慌ただしかった面談の様子を、記憶の引き出しから手繰り寄せてみたんじゃ。

あの時、◯◯さんはワシの書類に目を落としながら、「意識もしっかりしとうし、日常生活も自分で何でも問題なさそうですね。自由爺さんは入院生活に適応するのが早そうですわ。これなら安心です」なんて、感心したように細い目を細めて褒めてくれたんじゃ。こちらも播州の男の意地がありやすから、「これくらい、なんちゅうことあらへんわ」と、青々とした坊主頭をペカペカと叩きながら、いかにも余裕しゃくしゃくな大人の男を気取って見せたわけで。

……待てよ。いま思えば、あの時の言葉の裏には、別の意味が隠されていたんやなかろうか。

もしかして、あの最大級の褒め言葉は、「この患者は精神的にも自立しとるし、手がかからんから、他の重篤な患者さんに時間を割くために、放っておいても大丈夫や」という、看護のプロ同士の暗黙の合図やったんじゃなかろうか。

そう得心がいった瞬間、なんや、丁重にほったらかしにされとるようで、ちぃと考えたら腹が立ってきたわい。

「適応しとる」んやなくて、こっちは精一杯、この異常な白い世界に「適応しよう」と爪先に力を入れて背伸びしとるだけなんじゃ。四十八の、世間じゃあ働き盛りと言われる男が一人、会社に籍を置かせてもらった申し訳なさを抱え、家族と焼肉を食った夜の名残を惜しみながら、癌という名の得体の知れん不気味な敵を前に、夜な夜な坊主頭で白い天井を見つめとるんや。そら、一寸先も見えない暗闇の中で、心細いことくらいあるやんか。いくら気丈に振る舞っていても、中身はただの生身の人間、大病を前に怯える一人の男に過ぎんのでござんす。

病気で弱っとる時は、本当に、ちょっとした些細なことが針の先のように心にチクリと引っかかるもんやな。

普段の娑婆(しゃば)での暮らし、仕事の現場なら、「まぁ、看護師さんも人手不足で忙しいんやろ、しゃあないな」と頭を掻いて大らかに水に流せるはずのことが、いまはこの閉ざされた病室のベッドの上にいるせいで、いけねぇ。「ワシのこと、もう忘れとるんちゃうか」「見捨てられたんやないか」と、悪い方、悪い方へと邪推してしまう。これも、宣告を受けて以来、すっかり心が守りに入っちまって、臆病風に吹かれている証拠じゃろう。男が廃るというか、情けない話でございます。

ま、いつまでもカーテンの陰でイジイジと愚痴をこぼしていても、血糖値が下がるわけじゃなし、◯◯さんがすっ飛んでくるわけでもない。

ここはひとつ、播州の男らしく、ユーモアという武器でこのすれ違いを笑い飛ばしてやろうじゃないか。明日、もし廊下か食堂のあたりで◯◯さんにバッタリ会えたら、「おいおい、◯◯さん、ワシの顔、すっかり忘れとったやろ!」と、大きな身振りを交えて冗談の一つでも飛ばしてやるか。向こうが「いやだ、自由爺さん、そんなことありませんよ!」と慌てる顔が目に浮かびやす。そうやって笑いに変えてしまえば、この胸のモヤモヤも、屋上の夜風に吹かれるようにすうっと消えていくに違いありやせん。

病院という場所は、身体の病気を治す神聖なとこやが、その一方で、剥き出しの人間と人間が狭い空間でひしめき合う、こういう「心のすれ違い」もあちこちの床に転がっとる、なんとも不思議な場所やなと、つくづく思いやす。誰もが悪気があるわけじゃねぇ。みんなそれぞれの戦場で、必死に生きとるだけなんじゃ。

皆も、日々の暮らしや孤独な夜の中で、誰かに気づいてもらえなくて寂しい時は、「ワシは今、寂しいわい!」と、心の中で大声で叫んでもええんやぞ。

格好をつけて大黒柱のフリをしたり、強い人間を演じて我慢しすぎるんも、かえって身体にとっては大きな毒になりますからの。弱音を吐き、涙を流し、自分の小ささを認めることも、立派な養生のひとつでござんす。

二十二時の消灯を告げる静かなアナウンスが流れ、パチリと部屋の灯りが消えやした。

さて、明日は誰が巡回に来るかのう。あの懐かしい◯◯さんの顔が見られるかどうか、磨き上げた頭をごろりと枕に預けて、ボチボチ待つとしようかの。

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ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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