養生草紙 第四十八巻 突然の吉報は神の声、地獄の4回目回避とわが家への切符(診断)
いやはや、参った。本当に、人生ちゅうのはどこでどう転ぶか分からんものじゃな。
あの狭い狭いMRIの筒の中で聴かされたけたたましい工事現場のような爆音や、身体の芯からカーッと恐ろしい熱が走り抜けた造影剤の不気味な余韻が、いまだに腕の血管のあたりにじんわりと残っとるような、そんな翌日のことじゃった。 今日は、今後の運命を左右する主治医の先生との運命の面談の日でな。ワシは朝からどこか落ち着かん気持ちを抱えながら、いつになく神妙な面持ちで、診察室のあの少し冷たい丸椅子にどっこいしょと腰を下ろしたんじゃ。 部屋の中に漂う独特の緊張感に、無意識のうちに膝の上の手をぎゅっと握りしめておったわい。
先生は、机の上の大きなモニターに映し出された昨日の検査画像と、手元のカルテを交互に見つめながら、はじめにいつもの穏やかなトーンでこう口にされたんじゃ。 「自由爺さん、良いニュースがありますよ。影が明らかに小さくなっています。それに、血液検査のがんマーカーの数値も、すっかり綺麗に落ち着いていますよ」
おお、それはありがたいだのう、と心の中でガッツポーズを決め、張り詰めていた胸の閊(つか)えをフッと下ろしたのも束の間じゃった。次に先生の口から飛び出した言葉に、ワシは自分の耳を疑うて、危うく椅子から転げ落ちそうになってしもうたんじゃ。
「そこでですね、予定していた4回目の抗がん剤ですが……一旦これだけ改善されているので、今回は中止にしましょう」
……え?
……え? 中止? 「え、先生……ホンマに? ホンマにそれでいいの???」 ついつい、静まり返った診察室の中で、昭和のオヤジにあるまじき裏返った大声を上げて聞き返してしもうたわや。 てっきり、あの胃袋をひっくり返されるような地獄の船酔いの大波が、また容赦なくワシの老体に押し寄せてくるものとばかり腹を括り、覚悟を決めとったもんじゃから、完全に正面から不意打ちを喰らって虚をつかれた形じゃな。頭の中の時計がチクタクと音を立てて止まったような衝撃じゃった。
ワシのハトが豆鉄砲を食ったような顔を見て、先生はマスクの奥で優しく目を細め、実にていねいに説明してくれたんじゃ。 「おそらくね、これ以上強い抗がん剤でがん組織を叩き続けても、劇的には小さくならん段階にきています。ならば、ここで一旦きっぱりと治療を中止して、これまでの戦いでボロボロになった身体に体力を戻してあげる。そして、万が一にもまたあいつが不穏な動きを見せた時に、今度は万全の体力でしっかり迎え撃てるようにした方が、長い目で見たら絶対に賢明だと思いますよ」 その一言一言が、まるで暗闇の深い森を歩いとったワシの足元を、優しく照らしてくれる一筋の灯火のように感じられたものじゃ。
突然もたらされた夢のような吉報に、ワシは嬉しさを通り越して、狐につままれたように頭がぼーっとしてしもうた。 夜な夜なベッドの上で激しい船酔いにのたうち回り、裏メニューの明石焼き(玉子焼)を涙ながらにすすったこと。喉の灼熱のような痛みや、指先がジンジンと痺れる皮膚炎に耐えながら、天井の一点を見つめて「明日はマシになりますように」とじっと耐えとった、あの長くて孤独な日々が、まるで古い活動写真の走馬灯のように頭の中をパタパタと駆け巡りよる。 よう頑張ったな、ワシの身体。そんな愛おしさと、早くあの住み慣れた播州のわが家へ帰りたいという気が急く思いがちゃんぽんになってな。気がつけば、子供のようにぽつりと、こんな言葉が口からこぼれ出とったんじゃ。
「先生……もしかして、今日、今すぐ退院ですか???」
先生はまた苦笑いしてな、
先生はまた苦笑いしてな、「よっぽど家が良いんですねぇ」と小さく肩をすくめて見せた。 「でも、もう外は夕方ですからね。今日は病院の晩御飯をしっかり食べて栄養をつけて、明日すぐに退院できるように、今からナースセンターへ手続きを回しますよ。明日、もう一度だけ朝に面談をして体調を確認したら、お昼前には堂々と帰れると思いますよ」
その言葉はな、涙が出るほどありがたく、ワシにとっては白い巨塔の天井から神様の声が病室いっぱいに響き渡ったような、そんな神聖な心地じゃった。この瞬間の歓喜と安堵の混ざった独特の空気は、生涯忘れることはないじゃろう。 まさに棚からぼた餅、いや、大嵐の後に突如として現れた満天の星空のようじゃな。人間、真面目に歯を食いしばっておれば、思わんところから思わんような良いことが起きるもんやな。 つらい刺客ばかりが次から次へと容赦なく降ってくるがん治療じゃが、こんな最高のご褒美が待っとるんやから、人生ちゅうのはまだまだ捨てたもんやあらへんな。
さて、今夜がこの特別室で過ごす、
さて、今夜がこの特別室で過ごす、正真正銘最後の夜じゃ。 夜中に懐中電灯の小さな光でワシを静かに見守ってくれた看護師さんや、ぶっきらぼうな態度をとってもしんどい時に「助けて」と言ったら美味しい解決策を教えてくれた、お世話になった看護師さんたちの一人ひとりの顔を思い浮かべながらな。病院での最後の晩御飯を、感謝の念とともにありがたく喉に流し込んで、明日の帰宅に向けて相棒のiPhoneや荷物の準備をするとしますわ。
ま、焦ってもしょうがない。夜が明ければ、明日のお昼には我が家の畳の上に座っとるんじゃからのう。 明日からは住み慣れたわが家で、お気に入りの景色を眺めながら、また自分らしいペースでボチボチと養生を続けていきますか。
皆もな、生きていれば先の見えんしんどい闇の中に立ち尽くし、弱音も吐けずに歯を食いしばる夜もあるじゃろう。けれどな、諦めたらあかんよ。どんなに深い森の中におっても、明日は思いもよらん眩しい光が、あんたの元へ差し込むかもしれんで。 今夜は難しいことは全部忘れてな、心穏やかに、誰かの温もりに守られたええ夢をみなされよ。では、わが家への前夜祭に乾杯じゃ。おやすみなさい。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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