太公望の戯れ 第八話 爺、ルアー沼の入り口に立つ

夕暮れ時、にわかに涼しい風が吹き抜ける街並みを、五メートルもある長いタモ網を大真面目に抱えて歩く一人の爺がおった。はたから見れば少々奇妙な姿だったかもしれんが、本人の頭の中はそれどころではない。

我が家の玄関をくぐり、愛犬が出迎えてくれるのもそこそこに、晩飯を文字通り「かっこむ」ようにして平らげた。向かった先は、書斎のパソコンの前である。パチパチと電源を入れ、画面が明るくなるのを待つ間も、昼間に川原で見つけたあの魚たちの顔が、どうしても頭から離れんかったのじゃ。

近所の川をのぞき込んだとき、水面の下で我が物顔で泳いでいた巨躯たち。 一抱えもありそうな、堂々たる鯉。 泥底に潜み、怪しい髭を震わせていたナマズ。 そして、水草の陰からこちらの様子をじっと窺っていた、独特の斑紋を持つ雷魚。

どれもこれも、自分の想像をはるかに超えて大きかった。あの野生の生命力を間近で見てしまっては、釣り人の血が騒がないわけがない。

「あいつら、一体全体、何で釣るんやろうな……」

ふと湧き上がった素朴な疑問。それを解決するため、現代の文明の利器を駆使して、夜の調査を開始することにした。

文明の利器で探る、未知なる魚たちの生態

それにしても、本当に便利な時代になったもんじゃと、キーボードを叩きながらしみじみと思う。 昔なら、新しい魚種に挑戦しようと思えば、まずは町の小さな釣具屋へ足を運び、セロハンテープで補修された雑誌を立ち読みすることから始まった。なけなしの小遣いをはたいて分厚い専門誌を買い込み、穴が開くほど写真を眺め、へべれけに酔っぱらった近所の釣りの先輩たちに「あそこの川はどうです」と頭を下げて回らんと、何一つ情報は手に入らなかった。

それが今や、画面を少しスクロールするだけで、日本全国、いや世界中の「釣りの先生」が何万人も画面の向こうに控えておる。

まずは、あの不敵な面構えをしたナマズから調べてみることにした。 検索ボタンをぽちり。ふむふむ、なるほど。 ナマズという奴は、基本的には夜にめっぽう強い魚らしい。暗闇のなか、優れた嗅覚と髭のセンサーを頼りに獲物を探すのだそうだ。 では、どんな仕掛けで狙うのかと読み進めると、出てきたのはカエルの形をした中空の柔らかいルアーや、水面をバタバタと激しく泳いで音を立てるプラグたちだった。

「ほぉ〜、おもしろい。あんな見た目で、水面を割って飛び出してくるんか」

想像するだけで、手に汗がにじむ。 続いては、水面のアサシン、雷魚じゃ。 これまた、基本はカエル型のルアー(フロッグというらしい)が主流とのこと。しかも、ただ泳がせるのではなく、水面を覆い尽くすようなリリーパッド、つまり蓮や藻の草むらの上を、あえて引っ張ってくるのだという。 昭和の時代の、あのひたすら綺麗な水面へと仕掛けを投げ込んでいたバス釣りからすれば、そんな障害物の塊みたいな場所へルアーを放り込むなど、到底考えもせんかった世界じゃ。 魚の数だけ、釣り人のこだわりがあり、独自の工夫がある。なかなかどうして、底が知れないほど奥が深い。

まさかの「パン」と、立派な作戦に足りない武器

そして最後は、あの川の主とも言える大物の鯉じゃ。 さあ、これほどの巨体を、一体どんなハイテクなルアーで仕留めるんやろう。 胸を高鳴らせながら、解説サイトのページを読み進めていく。 すると、画面に躍り出たのは、思いもよらない文字列だった。

「パ、パン……?」

一瞬、自分の目がかすんだのかと思った。眼鏡を指で押し上げ、もう一度画面を凝視する。 やっぱり、パン。 それも、お洒落なフランスパンなどではなく、どこにでも売っている普通の食パンである。

「いやいやいや、ちょっと待ちなはれ」

思わず、誰もいない部屋で画面に向かってツッコミを入れてしもうた。 こちらは一世一代の、魚と知恵比べをする釣りの話をしとるのである。それなのに、なぜ明日の朝食の定番メニューが堂々と登場するのか。 しかし、調べてみればみるほど、現代の鯉釣りにおいて「コイコイ作戦」のごとく食パンを小さくちぎって水面に浮かべ、それをエサにして釣る手法は、極めて打率の高い定番中の定番らしい。長いこと釣りを趣味にして生きてきた自負があったが、こればかりは完全に初耳、目から鱗が落ちる思いじゃった。

では、ルアーマンとしてのプライドに賭けて、ルアーでは絶対に釣れんのか。 さらに意地になってスクロールを続ける。 すると、なんと驚いたことに、世の中には「鯉専用ルアー」なるマニアックな代物が、厳然として売っとるではないか。それは、水面に浮かぶ食パンの切れ端や、川底のコケ、あるいはタニシを模した、なんとも妙妙たる形のルアーたちだった。

「なんでもあるんやなぁ、今の世の中は」

日本の釣具メーカーの飽くなき探究心に、思わず心から感心してしもうた。 だが、そこまで熱心に調べ上げたところで、ある一つの、そしてあまりにも重大な事実に気がついてしまったのじゃ。

そういえば、今の自分が持っている道具箱の中身はといえば……。 渓流用の、小さなスピナーとスプーンばかり。 キラキラと光る金属片しか入っておらん。 当然、ナマズ用のバタバタ泳ぐルアーもない。 雷魚用の、草むらを乗り越えるカエルもない。 ましてや、パンに化ける鯉用のルアーなど、あるはずもない。

つまり、頭の中だけで組み立てた作戦は天下一品、天下無双の出来栄えじゃが、それを実行に移すための「武器」が、手元にまるで足りとらんのである。

ルアー沼の入り口で見る夢

これはいかん。非常にいかん事態である。 ここまでお膳立てが揃って、指をくわえて見ているわけにはいかん。 明日は、何が何でも釣具屋へ行かねば慢。いや、むしろ行く義務がある。 これは決して、年甲斐もない無駄遣いなどではない。大人の必要経費、未知なる魚たちと真摯に対話をするために必要な、前向きな「投資」なのじゃ。

そう自分に対して必死に言い訳の抗弁を並べ立てながらも、頭の中の買い物かごは、すでに溢れんばかりに満杯になっとった。 緑色したカエルも欲しい。水面を賑やかに叩くトップウォータープラグも欲しい。噂の鯉ルアーの実物も、この目でじっくり拝んでみたい。 気がつけば、まだ一回も糸を垂らしてもおらん魚たちのことで、脳内はすっかり占拠されてしまっていた。

昔からそうじゃった。 釣り人という因果な生き物は、 実際に釣り場に立って竿を振っている時よりも、 こうして家でああでもない、こうでもないと妄想を膨ませている時の方が、はるかにたくさんの大物を釣り上げとることが多い。

その晩、爺は布団の中で、さっそく素晴らしい夢を見た。 重厚なタックルがひん曲がり、水面を割ってドボォンと雷魚が跳ねる。 闇夜の川面で、ナマズが激しくルアーに襲いかかる。 そして、食パンに化けたルアーを、大鯉が掃除機のように吸い込む――。 夢の中の釣果は、文句なしの大漁、お祭り騒ぎじゃった。 現実はといえば、まだ釣具屋の敷居すら跨いでおらず、ルアーを一つも買っとらんのじゃがの。

さて、夜が明けたら、いよいよ釣具屋へ突撃じゃ。 どうやら爺は、この歳になってまた一つ、底なしの「ルアー沼」の入り口に、嬉々として立ってしもうたらしい。

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