養生草紙 第三十三巻:天井の点と、静まり返った明け方   (病室・病床で自分を見つめ直す夜)

この「病院」という場所の空気

いやはや、参った。今日は少しばかり、ワシが身を置いとうこの「病院」という場所の空気について、じっくりと記しておこうと思うんじゃ。

一口に病院と言うても、その中には色々な部屋が並んどる。プライバシーの守られた個室もあれば、ワシが今こうしてジャージ姿で白布のベッドに腰掛けとるような、カーテン一枚で仕切られた四人部屋もある。そしてナースセンターのすぐ横には、ひときわ体調の優れん方が入るための、二十四時間体制で医療のからくりが稼働する特別な個室も用意されとるんじゃよ。

一回目の入院の時は、右も左も分からぬまま、この四人部屋で過ごしたんじゃがな。入院する前は「娑婆(しゃば)の寄席や長屋じゃあるまいし、静かにせにゃいかんが、四人も同じ部屋におれば、消灯前に少しくらいは『お互い大変ですな』なんて世間話の花も咲くじゃろう」と高をくくっとったワシが甘かった。現実はそんな生易しいもんじゃあねぇ。

そこには、日常の当たり前の会話なんてありゃあせん。部屋を支配しとるんは、無機質な点滴スタンドの軋む音と、重苦しい沈黙だけじゃ。たまに面会時間になって、カーテンの向こうに家族が見舞いに来ても、聞こえてくるのは弾んだ笑い声やない。堪えきれん啜り泣きや、周囲を憚るような地を這うボソボソとした低い声ばかりじゃ。壁に貼られたネームプレートを眺めながら、誰もが己のカルテと向き合い、孤独な戦いを強いられとるのが嫌というほど伝わってくる。

中にはな、目に見えぬ病のストレスに心が悲鳴を上げて、夜中に急に声をあげて泣き出すもんや、やり場のない怒りをぶちまけるように誰彼構わず怒鳴り散らすもん、主治医の先生と激しい喧嘩を始めるもんもおる。

かと思えば、ただひたすらに白い天井の一点を見つめ続けとう御仁もおる。その虚ろな眼差しを見るたび、ワシの胸の奥もキュッと締め付けられるようじゃった。故郷である播州の賑やかな秋祭りの喧騒とはあまりにかけ離れた、この重苦しい独特の空気に、四十八の男として随分と肝を据えてきたつもりのワシも、最初の頃はなかなか身体と心を馴染ませることができんかった。

忘れもしん、あれは二度目の抗がん剤を投与した翌日、ワシがひどい船酔いのようなムカムカに襲われてベッドの上でのたうち回っとった時のことじゃ。

二十二時の消灯時間をとうに過ぎ、夜中の静寂が病棟全体を包み込んどったその時、ナースセンターの周りが急にバタバタと騒がしくなったんじゃ。せわしない看護師さんたちの足音が廊下に響き渡り、ワシの部屋のカーテンの隙間から赤黒い廊下の非常灯の光が激しく明滅しとるのが見えた。ふと目を凝らせば、酸素ボンベの金属音をカタカタと鳴らしながら、一人の老人がベッドに乗せられたまま、あのナースセンター横の特別な部屋へと大急ぎで運ばれていった。

暗闇の中、薄い壁越しに、看護師さんや医師の緊迫した声がかすかに漏れ聞こえてくる。

機械のピッピッピッという警告音。ワシはただ、自分の胃袋の中で繰り広げられる激しいケミカルのダンスと戦い、冷たい脂汗を流しながら、壁の向こうのその声に、じっと耳を澄ませとったんじゃが……。

明け方の五時を回った頃じゃろうか。あんなに緊迫感を持って聞こえとった医師たちの声や機械の音が、ふっ、と、まるで火が消えたように途絶えたんじゃ。

窓の外が少しずつ白み始める頃、廊下はまた何事もなかったかのように元の静けさに戻っとった。けれど、その朝の静けさは、昨日まで感じていた手持ち無沙汰な退屈とはどこか決定的に違う、もっと深くて、五臓六腑が凍りつくような冷たいもんのように感じてな。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、いつもよりずっと物悲しくリノリウムの床を照らしとった。

ここでの闘病は、単に己の身体の中に潜む癌細胞という敵との戦いだけやない。

こういう「生と死」が薄いカーテン一枚、壁一枚を隔てて表裏一体に隣り合わせにおる空気の中で、いかに絶望の霧に呑まれず、自分の心をおだやかに守っていくか。それこそが、一番の難題かもしれんのう。知らず知らずのうちに心が守りに入って、邪推をしてしまう心の癖とどう戦うか、というわけでございます。

ま、いくらベッドの上で頭を悩ませて考えても、答えなんてなぁ出んし、時計の針が早く進むわけでもありゃせん。

今、ワシにできるんは、インスリンで血糖値の地固めをし、出されたお薬を信じて、今日もボチボチと、天から与えられた一日を精一杯、大切に生きることだけじゃ。新しく相棒になったスマホという魔法の板きれを眺めながら、また一歩、ワシの道を歩むだけや。

皆も、朝目が覚めて、美味しいと味を感じて飯を食い、他愛のない話で笑い合える、その当たり前の朝が来ることを、どうか奇跡だと思って大切にしてな。止まない雨はねぇし、明けない夜もありやせん。

さて、今夜もいただいた横向き用の枕を試しながら、大人しく毛布を被って休むとしますか。

また、ボチボチとな。

【ワシからのお願い(免責事項)】
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
万が一、掲載した情報でトラブルが起きても、当サイトでは責任を負いかねるんじゃ。すまんねぇ。
詳しいお約束事は、こちらの「プライバシーポリシー・免責事項」にまとめてあるで、一読しておくれやす。