養生草紙 第十七巻:開かれた門、明日への進軍 (本格的にがん治療開始)
いやはや、今日は最高にめでたい日じゃ!
いやはや、今日は最高にめでたい日じゃ!
朝一番にパチリと病室の蛍光灯が灯った瞬間から、今思えば何やら良い風が吹いていたのかもしれやせん。カーテンをシャッと開けて「今日はよい天気ですよ」と、お日様のような満面の笑みを届けてくれた看護師さんの笑顔に気を良くしとったんじゃが、その後に、さらに嬉しい知らせが枕元へ舞い込んできてな。なんと、あんなにワシを苦しめ、行く手を阻み続けていたあの忌々しい血糖値の数値が、ついに治療可能となる合格ラインをクリアしたんじゃ。
入院してからのこの一週間というもの、ワシの身体は慢性的に150から200という高い数値を行ったり来たりしとってな。日に三度、指先に針を刺されるたびに「またダメか」と審判を下され、120という数字がまるで雲の上の存在のように遠く感じられていたもんでございます。
それが、インスリンという新たな相棒の力を借りて地固めを続け、屋上の風に吹かれながら膵臓の機慣れを気長に待っていた甲斐がありやした。まさに「待てば海路の日和あり」やな。どんなに分厚い壁であっても、焦らずボチボチと構えていれば、いつかは潮が満ちてくる時がやってくる。昭和の職人仕事でも、道具の調子が戻った瞬間ってなぁ、何物にも代えがたい喜びがあるもんでございますが、己の身体の調子が整ったとなれば、その嬉しさはひとしおでござんす。
回診にやってきた主治医の先生からも、カルテを嬉しそうに眺めながら「自由爺さん、数値もしっかり落ち着きましたね。いよいよ明日から、抗がん剤と放射線の治療を始めていきましょう」と、力強い言葉をいただいた。
「抗がん剤」「放射線」……。
その重々しい響きを医師の口から改めて聞くと、正直に言うて、指先が少し冷とうなるような緊張感や、背筋がピリッと引き締まるような心地はあります。これから体の中に強い薬を流し込み、目に見えぬ光線を浴びせて胸の奥の「影」を叩く。それがどれほど泥臭く、格好の悪い姿を晒す難行になるか、想像がつかないわけじゃあねぇ。
けれどものう、それ以上に「ようやく、ようやくスタートラインに立てるんや」という安堵感で胸がいっぱいになったわい。
これまでは、戦場に赴くことすら許されず、白いカーテンの檻の中で動かない時計の針を眺めることしかできなかった。あいつ(癌)はワシの胸の奥でじわじわと牙を剥いているかもしれないというのに、ワシはただただ数字に追われて足踏みをするばかり。その、五寸釘を打ち込まれるような停滞の時間が、ようやくゴトゴトと音を立てて動き出したんじゃ。「これでようやく、あっしの意志で真っ向勝負ができる」と思うたら、湧き上がる気力の方が勝りやした。
そんな喜びの中で迎えた昼飯は、相変わらずのあの冷え冷えとした青いプラスチック器に盛られた薄味の食事で、見た目にはちっとも味気ないもんじゃったが、今日ばかりは贅沢を言っちゃあいけねぇ。
昨日までは食欲も失せ、箸を持つ手も重うございましたが、今日ばかりは「明日からの大戦(おおいくさ)に備えるための、大事な大事なガソリンや」と思うて、感謝を込めて米粒ひとつ残さずしっかり平らげてやったぞ。器は青くとも、それを胃袋に収めるワシの腹の底には、すでに温かい火が灯っておりやした。
午後はバタバタとした検査の予定も途切れ、ぽっかりと時間ができたんでな。朝の看護師さんが「きっと気持ちも晴れると思いますよ」と勧めてくれた通り、上着を一枚羽織り、スリッパをペタペタと鳴らしながら外へ散歩に出かけてきたのでございます。
病棟を出て、新緑が眩しい病院の庭をゆっくりと歩きながら、娑婆の香りが残る外の空気を胸いっぱいに、腹一杯に吸い込む。
上を見上げれば、雲一つない初夏の青い空がどこまでも広がっておる。不思議なもんやな、さっきまで診察室や病室のベッドの上で感じていた、指先が冷たくなるような緊張や不安が、嘘のようにすーっと軽うなったんじゃ。風が坊主頭を優しく撫で通り抜けていくたびに、心の中に溜まっていた澱が綺麗さっぱり洗い流されていくようでございました。あの朝の看護師さん、ワシが播州の男の意地を張って、強がって背伸びをし、心がカチカチに強張っとるのを、すべてお見通しやったんかもしれんなぁ。一人の人間として寄り添ってくれたあの一言が、今になってじんわりと五臓六腑に染み渡りやす。
明日はついに、本格的な戦いの火蓋が切って落とされる。
これまでの一週間の停滞は、決して無駄じゃなかった。血糖値というもうひとつの身内のへそ曲がりを宥め、足元を固めるための大切な地固めの時間やったんや。一週間前に床屋の親父さんに思い切り丸めてもらったこの坊主頭と、入院前夜に我儘を通して脂を乗せたこの腹。格好はちぐはぐかもしれんが、これが今のワシの精一杯の戦闘服、いや、世界にたった一つの戦闘服でござんす。この潔い頭をペカペカと輝かせながら、逃げも隠れもしやせん、真っ直ぐに敵を見据えて、一歩も引かずに挑んでくるわ。
ま、今夜は「よし、準備は全て整った」と自分に深く言い聞かせて、磨き上げた頭をごろりと枕に預け、明日に備えて深くぐっすり眠るとするかな。
皆も、人生の途中で大きな勝負を控えている時や、新しい物事が動き出す前ってなぁ、どうしても心がざわつくもんでございます。けれど、そういう時こそ、胸の奥にある「静かな勇気」を、どうか消さないように大事にしなされよ。焦ってジタバタと波を立てる必要はねぇ。ただ腹を括って、目の前にある一歩を自分の足で踏み出すだけでええんじゃから。
さて、明日はどんな一歩になりますかな。ボチボチ、気合を入れていきますか。
ここにあるお話(養生草紙)は、すべてワシ個人の体験談やレビューや。お薬や治療の代わりになるもんやないからね。
体の調子がすぐれない時は、無理せんと専門のお医者さんの診断を仰ぐのが一番の養生や。自分の体を一番に大切にしてな。
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